◇人魚としての邂逅 その2


 これが最後かもしれないと、もう一度感慨深く城を見上げる。

 そう、すべて終わったことだ。これからロステレドがどうなろうと、海に影響がない限り私には関係ない。そう自分へ言い聞かせて、振り切るように水中に戻ろうとしたところで、浜辺に一人の人物がたたずんでいるのが目に入ってきた。


 陽の光を浴びて燦然と輝く金髪、見覚えのある白いフロックコート。瞬間、息が止まる。――セアンだ。その気品あふれる姿を見ると、昨日まで一緒にいたはずなのに妙に懐かしくて、早く自分の無事を知らせたくなる。が、すんでのところではっと思いとどまり、私は泳ぐのをやめた。


 彼とは船上で人質となり、別れたきりだ。ロゼラムに行ったはずの私が海中から現れたら度肝を抜かすに違いない。今すぐここを去らなければ。それなのに、岩に挟まったようにその場から動くことができない。


 確かに、今までの私は彼の前では人間だったから、自分が人魚であると言ったところで、信じてもらえる算段はなかった。それが今なら、その正体を信じる、と言うか認めざるを得ないだろう。セアンならきっと、ありのまま受け入れてくれるに違いない。

 だが、今更明かしたところで、もはや彼とのルートはあり得ないのだ。ここは何も見なかったことにして黙って消えるのが一番に決まっている。そうわかってはいても、なんとなく離れがたくて、そっと彼の様子を見守ることにする。


「……ローネ?」


 どくん、と鼓動が高鳴る。聞き間違いではないかと耳を澄ませると、潮騒に混ざってセアンのまっすぐな声が飛んできた。


「ローネ! どうして……こんなところに?!」


 そのまま、コートの裾やら靴が濡れるのも構わずにばしゃばしゃと波打ち際へ入ってくる。数メートルは離れていたはずだが、どうやら水面に広がっていた髪のせいで、気付かれてしまったらしい。そうこうしている間に、セアンはあっというまに膝まで水中に浸かる。


「本物なんだな? 無事でよかった……。ロゼラムの船は雷雨で大破したと聞いていたが、船から逃げられたんだな」

「……」


 私は口を開けずにいた。言えない。言えるわけがけない。このままセアンの勘違いと言うことにして、逃げ切ってしまおうか。逃げ出そうと半分沈みかけて、躊躇する。

 確かにここで逃げるのは簡単だが、一国の王子である彼とこうして会える千載一遇の機会はもう二度とないかもしれない。私が逡巡している間に、彼の方は首元まで浸かっていきそうな勢いでざぶざぶと進んでくるので、私は考えるよりも先に慌てて制止していた。


「殿下、そこで大丈夫です!」

「あ、ああ……」


 セアンはきょとんとした顔で立ち止まった。ちょうど岩を挟んだ陰に隠れているのと、浅瀬に座り込んでいるため、私の半身はまだ彼には見えていないようだ。


 さて、止めたはいいがどうしようか。どうやって一人になったのかは知らないが、急がなければじきに護衛がやって来るだろう。焦る私のことなどいざ知らず、金髪の王子はすっかり憔悴しきった様子だ。


「どうしたんだ? 早く海から上がらないと風邪を引いてしまう。私の上着を貸そう。さあ、早く」


 差し伸べられた手を見ると、微かに胸が痛む。運命の歯車はどこからずれてしまったのだろう。セアンの王子としての迷いや、ユリウスのかねてからの愚直な想い、それに私の見ないふりを続けてきた本当の気持ちのせいで、ストーリーはいともたやすく変わってしまった。もしも何かの選択肢が違えば、この手を取っていたこともあったかもしれない。だが、その巡り合わせはもう来ない。私はこれから、セアンに事実を突きつけねばならないのだ。


「殿下。ずっと言えなかったことがあります。」


 しばし、ためらう。それでも、何かと気にかけてくれた彼には本当のことを伝えておきたい気持ちもあった。ついに観念して、私はからからの喉を振り絞って口を切った。


「――私は人間ではありません。人魚なのです」

「……え?」


 私が藪から棒に摩訶不思議なことを言い出したのを聞いて、セアンが目を見張っているのがわかる。だが、もはや引き返すことはできない。そのまま構わず続ける。


「あなたが溺れかけたあの嵐の日に、ここまで私が運んだんです。そして魔法使いと契約して、一か月以内に誰かから愛を得られなければ泡になる、と言う条件付きで人間になりました。」

「本当に、そんなことが? にわかには信じがたいが……」


 ここは実際に見てもらった方が早いかもしれない。私が浜辺とは逆の海の方へ泳ぎ出すと、水面で陽に反射して光る鱗があらわになる。


「人魚、だ……」


 まあ、誰でも未知の生物を目にしたらそんな反応になるだろう。それ以上言葉が出てこないのか、どこか困ったような、愕然としたような表情を崩さない。


「……今まで騙していて、ごめんなさい」

「それは、言えるわけないだろう。城の宮廷楽士はよく人魚の話をしていたが、あの人は何をしでかすかわからない雰囲気だったからな。君の選択が、賢明だ。」


 ラウニの柔和な物腰と、眼鏡の奥の切れ長な栗色の目を思い出す。優しい雰囲気とは裏腹に、ゲームのおぞましい記憶が重なりあわてて首を振った。ここでは、きっとばれていなかったはず……。

 まあ、もっとも、レオナルドにはばれてしまったわけだが、しぶとい彼のことだ。ユリウスの呼んだ嵐で船が大破したとはいえ、きっとどこかでは生きているのだろう。これに懲りておとなしくしてくれるといいのだが。


 そして、セアンはおもむろに私の濡れた手を取ると、いつかのように恭しく両手で包んだ。


「そうだ。やっと、言いたかったことが言えるな」


 線が細いしなやかな指先。大きな手のひら。お互い冷え切っているのがあの時とは違っている。



「あの時。私を助けてくれて、ありがとう。ずっと、君に礼が言いたかった」

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