◇空に映る海 その2


「そうか。それなら、よかった。……君は――」


 セアンが何か言いかけた時だった。穏やかとばかり思っていた船が、唐突に波に揺らされる。いつかのようにまた海へ落っこちてはたまらないと慌てると、彼も同じことを思ったのか強い力で私の肩を引き寄せた。


「っと……急に揺れたな。平気か?」

「は、はい……」


 触れた手のひらから伝わる熱は、波が落ち着くとすぐに離されてしまい、少々の名残惜しさを感じる。だが、今はそれどころではない。何事かと狼狽しているうちに、慌てた様子の兵士がばたばたと報告にやってきた。


「殿下! 西から船が近づいているようです。」

「何? 西からだと?」

「はい。警告信号は出しているのですが、何やらこちらの方へ近づいてきております。軍艦ではないようですが、何の国旗も出ておりません。海賊船でしょうか?」


 なんとなく、嫌な予感がする。船の進行方向へと目を凝らすと、水平線の彼方からだんだんと大きくなっている船影がある。暗闇の中からその全貌があらわになるにつれて、まるでこちらの船に正面からぶつかっていくかのような勢いに思わず身が縮むような気がした。


「……西から、ということはロゼラムですか?」

「ああ。艦隊が来て警戒状態になる前に、領海へ入ってきた商船かもしれない。あるいは……海賊か。」


 そうこうしているうちに、船はじわじわと距離を詰めるように近づいてくる。こちらと同じくらいの大きさの帆船のようだ。頑丈そうなマストに、月明かりに照らされた白い帆。ふと、船の前方と後方に灯った光から、かろうじて誰かがいるのが見える。そのままじっと目を凝らしていると、徐々に近づいてくるにつれて、だんだんと見覚えのある人物の姿になっていく。堂々とした佇まいの背の高い男だ。


「おい、どうするんだ! こちらへ向かっているぞ?」

「とりあえず避けるんだ。おい、取り舵いっぱい!」


 船はいよいよ間近に接近してきていた。兵士たちの怒声が飛び交う。あわやぶつかると思われたが、こちらの船の横に付けるように、すれすれのところを進んだ。そのまますれ違う形になる。


「おい、危険だぞ! 近すぎるじゃないか。」


 こちらの喧騒などいざ知らず、甲板に立っていた男は何を思ったのか船のへりに立った。揺れる波に翻弄される船上であるというのに、何をするつもりなのだろうかと唖然とする。一同が見守る中、男は身軽にも跳躍して、こちらの船の甲板に降り立った。

 

 ダークブロンドの長身の男……間違いない。ロゼラム国第三王子、レオナルド。一瞬にして緊張が走る中、当の本人はいたって楽しそうに周囲を見回した。まるで獲物を探し出すかのように、一人一人に目を配っていた視線が止まる。

 そして次の瞬間、翡翠の瞳が私を映し出すと、ぞくりと全身が粟立った。


「遅いから迎えに来たよ、僕のお姫様。何せちょっとばかし、何せ足止めを食らってしまってね。一刻も早く君に会いたかったから、一足先に来ちゃったというわけさ」


 歯の浮くような甘い台詞に身の毛がよだつのは、きっと夜の海風の寒さのせいだけではないだろう。


「な……何をしに来たんですか?」


 それでも平静を保とうと努めながら、私は震えそうになる声を必死に絞り出して尋ねた。


「簡単なことだよ、ねえ……セアン殿下。彼女を渡してくれたら、引いてあげてもいいよ?」


 やはり、か。覚悟はしていたが、いざ改めて本人の口から言われると、背筋に冷たいものが走った。


「ローネ、前へ出るな。私が代わりに話をしよう」


 セアンは警戒の姿勢を崩さず、私を背にかばった。次いでカイも、腰の剣に手をかける。


「引いてやる、だあ? 随分と有利な立場に立ったつもりでいるんだな。何か勘違いしているようだが、敵の船に単身乗り込むようなバカがどこにいるんだよ。イカレてんのか?」


 すると翡翠の目がすっと細くなり、冷たさが増した。凍てついたその瞳の奥の温度が、一段と下がっていく。


「弟君は黙っててくれないかな? 僕はお兄さんと話がしたいんだ。」

「ああ? んだと?!」

「よせ、カイ。まずは話を聞こうじゃないか」


 セアンの背中越しに見ていても、膝ががくがくと震えて足がすくみそうになる。ロゼラムの王子と私たちの間を隔てるように、ひときわ強い海風が吹いた。流された雲が月明かりを覆い隠していく。


「話が早くて助かるよ。簡単なことさ。ロステレドか、その子一人か。お利口な王子様ならわかるよね? 一人の命と大多数の命の重さってやつを。何もその子を殺すなんて言っていないよ。ちょっと借りるだけさ。だって、こんなことでもしないと渡してくれそうにないじゃないか」


 もしこの要求を呑まなければ、今すぐ戦争をするとでも言わんばかりの勢いだ。セアンは端正な眉をひそめてため息をついた。


「なるほど。やはり人質、か。もし断る、と言ったら?」

「それは残念だなあ。僕としてはロステレド艦隊を全滅させたくはなかったんだけどね。」


 そしてレオナルドは、悪戯を思いついたかのように、唇の端を歪めてほくそ笑んだ。


 

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