◇空に映る海 その1

 そんな不安に押しつぶされそうになっていると、ふと扉の向こうからセアンの声が聞こえてくることに気付いた。あれから少々時間が経っているが、もしや立て込んでいるのだろうか。そろそろ様子が気になる頃ではあるので、固唾を呑んで耳を澄ませてみる。


「……それは。何かの間違いではなく、本当……なのか?」

「ええ、確かに。……伝令は『紫の目の女を連れて来れば、話し合いに応じる』と。そう申しておりました」


 ――紫の目の女。突然聞こえてきた単語に瞠目する。多分、と言うか確実に私のことだ。予想はしていたものの、いざ現実になると喉元に刃を突きつけられたようで、恐ろしさに身がすくむ。やはり、この一連の騒動の黒幕はレオナルドのようだ。

 切羽詰まったようなやり取りはなおも続いている。


「もう近くまで来ているのか?」

「あくまで公海には留まっているようですが、領海ぎりぎりなのでにらみ合いが続いています。無害通航で通すわけにはいかない数ですからね。とりあえずあの女性を連れてこないことには、話をする気も引くつもりもないようです」


 それ以上聞いていることができずに、気付けば私は扉を開けていた。すぐ近くに立って兵士と話し込んでいたセアンは、驚いて私の方を振り返る。


「ローネ! 待っていろと言ったはずでは……」

「ごめんなさい、殿下。……あの。お話、聞きました。やはり、行かせてください。」

「だが、それは……!」


 私の覚悟はとうに決まっていた。レオナルドの目的が私であることは、ほぼ間違いなさそうだ。思い切って息を吸い込む。彼の守りたいものを守れるなら、それ以上の幸せはないのだと自分に言い聞かせる。


「……私を、信じてください。」


 その瞬間、自分で口にしておきながらなぜかはっとした。同時になぜかあの言葉が頭をよぎる。


『――あんたの言うことなら、なんだって信じてやりたくなるよ。好きになる、ってそういうものじゃないの?』


 いや、今は関係ないはずだ。強く心をとらえて離さなかったあの眼差しを懸命に頭から追い出し、心を落ち着ける。

 金髪の王子は相変わらず眉をひそめて逡巡していたが、やがて意を決したようにうなずいた。


「君がそこまで言うなら、その意向に沿おう。だが、絶対に私のそばを離れるな。君のことは、絶対に私が守るから。……約束しよう。」

「ありがとう……ございます」


 ほっと力が抜ける。言ってしまった後で、もう引き返せない道へと足を踏み入れてしまったことを悟る。

 完全に予測不可能になってしまった未来には、一体何が待ち受けているのだろうか。ずっと牢獄にいるよりは、あるいは逃亡生活を続けるよりはずっと前に進める選択。だが同時に、恐ろしいまでの波乱を纏っているのには間違いなかった。




                 ***




 こうして外に出るのは何日ぶりになるのだろうか。つい数日前に浜辺を歩いたはずなのに、もうひと月も前のことのように随分と久しぶりに感じる。

 私が牢の外へ出たのを咎められるのかと思いきや、話は通っているのか周囲の兵士たちは何も言わなかった。ただ、セアンの後ろについて歩く。


 もしこれが昼間で、なおかつ二人きりで、こんな不穏な状況でなかったなら、きっとこの上ない喜びを感じていただろう。だが、現実はそんなはずもなく、変わったことと言えば私が罪人から人質になったくらいのものだ。


「遅いですよ、兄上。」


 夜の潮風は冷たく、時折激しく吹き付けてくる。いくつもの大砲を積んだ軍艦に乗り込むと、先に待ち受けていたカイが口を尖らせた。彼はちらりと私を一瞥したが、驚いた様子もなく、それ以上は追及しなかった。


「すまない、いろいろ立て込んでいてな。」

「それは、まあ……見ればわかります。で、どうするんです? こいつを渡して事が済めばいいですけど、あのロゼラムのことです。きっと裏があるに決まってますよ」

「わかっている。だが、私は彼女を渡すような真似はしなくない。とりあえず、話し合いに応じてくれるなら判断はそこからだ。」

「まあ、そうですね。ったく……いったい全体、あいつらは何がしたいんだか。」


 それを聞きながら、また私の知らないところで勝手に話が進んでいく疎外感を覚える。まるで、自分が持ち駒かカードにでもなったみたいだ。むろん間違ってなどいない。むしろ、自らロゼラムの取引材料になることを望んだはずなのに、どこか割り切れない自分がいることに気付く。


 船は出港し、だんだんと陸から離れていく。懐かしい、あれほど帰りたいと思っていたはずの海を目の前にしても、それほどの感慨は感じなかった。たとえ私が今ここで海に飛び込んだとしても、きっと溺れて死ぬだけなのだろう。人間として生きていく、と選択したならもはやここでの逃げ場はない。あんなに慣れ親しんだはずの海が、なぜか今は知らない生き物のようだった。


 満月を数日すぎただけの月明かりは、真っ黒な海をぼんやりと照らし出している。船が波をかき分けるように進んでいく飛沫は、それを淡く反射して輝いていた。しかしながら、船上は夜の静けさとは裏腹に、あれこれと指示し駆け回る兵士たちの喧騒でざわめき立っている。

 私が一人甲板の上で佇んでいると、話し合いを終えたセアンが戻ってきた。


「ローネ。大丈夫か?」


 心配そうに覗き込まれて嬉しいのと同時に、こうして一緒にいられるのもあと数時間だけかもしれないと思うと、胸が苦しくなる。


「大丈夫、です……」


 そう言って彼を安心させようと口角を持ち上げようとしたが、緊張のあまりうまく笑うことができず、ぎこちない笑みになった。それを見ると、またセアンがいたわしげな面持ちになり、こんな時に気遣わせてしまう不甲斐ない自分が嫌になる。


「そんな風には見えないが……。先ほども言った通り、君のことは絶対に守るから安心してくれ。もちろん、民のことも、国のこともだ。君は私の傍にいてくれるだけでいい」


 セアンの力強い言葉を聞きながら、精いっぱいうなずいた後、顔を上げる。夜の空の端の中には、暗い海が映っている。決して混ざることは無いと思っていたのに……何とも不思議な心持ちのあまり、素直な思いがこぼれていく。


「殿下がいてくださるだけで心強いです。ありがとうございます。」


 その空色の中の藍色を眺めながら、きっと叶わないのだとはわかっていても、このまま本当に彼の傍にいられたらいいのに、と思う。


「そう言って頂けて嬉しいです。」


 そう、嬉しいと思うのに。それでいて、頭のどこかで何か大切なことを忘れているかのように警鐘が鳴っている。私が本来いるべき場所はここではない、そう主張するかのように、また足の裏にずきずきとした痛みが走る。


 はっとして、着の身着のまま出てきてしまった足を恐る恐る見やると、月明かりに照らされて透き通る様に白い肌が映る。ヒレの手触りのように感じた足の甲がどうなっているのか、確認する勇気は今はない。ドレスの裾を持ち上げでもしない限り、きっと大丈夫だろうと自らを納得させ、痛みをこらえて嘆息する。


 今の私はいったい、人間なのだろうか。それとも人魚に戻ろうとしているのだろうか。どちらともつかない存在の、中途半端な自分がひどく滑稽に思えた。

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