◇秤にかけて その2
互いの呼吸音すらも間近に響き合うこの空間は、あまりの静けさに耳が痛くなるくらいだ。長い沈黙が流れる。どちらに転んでも感じるのは、きっと彼への落胆だ。私を選んだなら、民の命を軽視した、と。民を選んだなら、自分を捨てるのかと。そう悟ると、何て不躾な質問をしてしまったのだろうかとつくづく思う。
一分か。それとも十分か。時間の流れすらもわからなくなる闇の中で、彼の持つ微かな明かりが揺れる。それが私を救う標となるのか、それとも一瞬の煌めきに過ぎないのか。固唾を呑みながら見守っていると、鉛のように重たい沈黙を先に破ったのは、セアンの方だった。
「どちらかなど、選べるはずないだろう……?」
苦しみと怒りの混じったような、複雑な色が絡み合った声音が耳に届くと、私の心臓はドキリと跳ね上がる。
「……え?」
「言っただろう!」
はっとして顔を上げると、暗がりの中の端正な顔は苦悶の表情を浮かべていた。セアンに酷な選択を強いてしまったことに、今更ながら罪悪感を覚える。まだ繋いだままの指先からは、小刻みな震えが伝わってくるような気がした。その震えを隠すように、ぎゅっと強く手を握り返すと、相変わらず澄んだ空色の瞳は、まっすぐに私を見据えた。
「君は、私にとって大切な人なんだ。為政者としては、当然民を選ぶべきなのだろうが……私は君を失うことが、たまらなく怖い。」
セアンが迷わず民を選んだところで、私にそれを責める資格などない。それなのに迷ってくれている、だなんて。彼が決断に躊躇していることに、どこか安心している自分に気付くと、なんて底意地が悪いんだろうといたたまれなくなる。
そんな私の真意などつゆ知らず、彼はなおも続けた。
「君がこのままロゼラムに奪われたら? あるいは船上で戦争になって、目の前で死んでしまったら? たとえ逃げられたとしても、私の手の届かないところで生きていけるのだろうか? 君は多くの民と同じくらい……私にとって大事なんだ」
「セアン殿下……」
その言葉が耳に入ると、なんだか身の縮むような気持ちになってくる。
ほら、やっぱり。私はセアンにはふさわしくない。彼が思っているほど、私は清廉潔白でも健気でもない。そう見せかけているだけだ。蓋を開けてみれば嫉妬に狂い、ただひたすら生きようともがき、あがき続ける往生際の悪い人魚に過ぎないのに。
嘘に嘘を重ねて、彼の前では虚構そのもので。それでも、この期に及んで打ち明けて、がっかりなんてさせたくない。
「ごめんなさい! あの、困らせるつもりはなかったんです……」
しどろもどろに弁明すると、彼はふっと気が抜けたように笑った。
「いいんだ。……もう、時間がない。とりあえず城から出ることが先決だな。私は様子を見てくるから、君はここで待っていてくれ。」
「はい……」
それ以上は何も明かすことはできずに、マントを脱いで扉の向こうへと出ていく彼の後姿を見送る。
再び静寂に覆われると、急に手持ち無沙汰になってしまった。私は一人嘆息すると、これからどうすればいいのか考えを巡らせてみる。
レオナルドの目的が私にあるなら、数日前に浜辺で会った時、すぐに引き下がっていったのはどうしてなのだろうか。彼にしてみれば、常に城にいる私が、のこのこと外に出てきたのは格好のチャンスだったはずだ。その好機をみすみすと逃してまで、あっさりと引き下がったのはどうしてなのだろう。
目的のために手段も選ばないつもりなら、あの場で無理やり連れていくこともできたはずだ。私だけが目的ならば、なぜわざわざ艦隊を引き連れて来るなんて、回りくどいやり方をするのだろうか。
(まさか……戦争することが目的だとでもいうの?)
あのルートでのロゼラムは、強い艦隊を持つロステレドが敵のアレスに付くことを杞憂して、攻めてきたはずだった。でも、艦隊の建設を中止したことにより、その線はなくなったはずだ。
(レオナルドは……いったいどういうつもりなの?)
戦争がしたいだけなら、アレスとやればいい。せっかく表面上は波立っていないロステレドとの国交を壊してまで、やりたいものだろうか。まあ、あの腹黒国家の考えることはわからないが……。
(でも、明らかに私の選択のせいで新しい展開になっているのよね。考えろ……考えるのよ。)
あの舞踏会の日にレオナルドと会った時と言えば、一緒に踊った時に、いたく気に入られてしまったことと、戦争をほのめかしていたこと。後は、浜辺で会った時に自国へ連れて行きたがったことだろうか。
(……ん?)
浜辺での出来事を思い返そうとして、我に返る。レオナルドと一緒にいた大柄な男。あの男のことも、どこかで見たことがあるような気がする。
(……まさか、海賊?)
はっとする。あの誘拐された時、カイがロゼラムとつながって情報や奴隷を売っている海賊がいると言っていたが、まさか。
短刀を届けに来たエリーネ姉さまも、きっと海賊に見られてしまったのだろう。そもそも、私がうまくやっていれば、短刀を貰うことなんてなかったはずだ。
イレギュラーが重なりに重なって、レオナルドが人魚の存在に勘づいているとするなら……その目的は……人魚?
恐ろしい推測に思い当たると、つう、と背中に冷や汗が伝った。思わず動悸が早くなる。そうと決まれば、なおさら早くレオナルドを止めに行かなければならないのに、足がすくんでしまう。
私にできるのだろうか。またあの男の前に立つのが、たまらなく怖い。凍てついた氷のような翡翠の目を思い出すと、背筋がぞっと寒くなる。このままではだめだ。ロステレドだけでなく、グレーネまで危険に晒してしまうことになるかもしれないのに。
(私が……私が、なんとかしないと!)
強くかぶりを振って、余計な考えを頭から追い出す。今、私にできることは……取引の材料をそろえること。それでいて、あのレオナルドを出し抜いて皆を守ることだ。そんな大義なんて私に……やり遂げられるだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます