◇疑惑


 昨日の満月の夜のことは、なぜかおぼろげであまり記憶に残ってない。あのままどうやって部屋に帰ったのかすら覚えていない。気付けば部屋に戻っていて、いつのまにかベッドにもぐりこんで泥のように眠っていたようだった。


(あれ? 結局、私はどうなったの……?)


 薄目を開けて朝の陽ざしの中でまどろむ。手のひらに伝わるのは羽毛布団のふわふわとした柔らかな弾力。ものを掴むことができる、ということは。


「泡になっていない…?」


 少しずつ、意識がはっきりしてくる。ぼんやりとした記憶をたどりながら、もう一度糸を手繰るように思い返す。私は、あの夜セアンに会いたいと願ったはずだ。それなのに。


『俺は、ローネ。あんたのことが、たまらなく好きだ。』


 瞼の裏に鮮明に焼き付いているのは、黒髪の少年の熱を持ったまなざし。溶けるような闇色の瞳にすがるように見つめられ、息ができなくなるほど溺れていく、あの感覚。


『違うよ。俺は、ただ――』

『俺なら、あんたにそんな悲しい顔はさせない』


 それと同時に今までの断片的な記憶を思い返した瞬間、顔から火が出るようにぽっと熱くなる。たまらず飛び起きると、私は一人でシーツに顔を埋めて身悶えしながら、あわててブンブンと首を左右に振った。


「違う、あれは……そう、何もうまくいかないから。つい何かにすがりたくなって……私が見た幻覚。きっとそうなのよ!」


 深く息を吸って、吐いて、落ち着こうと努めながら、頭の中を整理しようとする。

 大体、私はユリウスに人間になる魔法をかけてもらっただけで、それ以外の接点はなかったはずだ。第一、今までのやりとりのどこに好きになってもらうような要素があったのだろうか。そして、気まぐれや悪戯以外で、どうして隣国の王女を装って邪魔してきたのだろうか。


 あのゲームにおいても王女の正体は何だったのか、知る限りではわからない。すべて彼の気まぐれで片づけるには、いささか無理があるような気もしている。

 ああ、だめだ。考えれば考えるほど、わけがわからなくなってくる。


「……私に情が沸いて、生かしてやろうと思ったから…?」


 ユリウスのことは何一つわかっていないが、考えうる可能性としては大きい。

だが、それなら「真実の愛の告白どうたら」はどうなったのだろう。漠然とした好意ならまだしも、「真実の愛の告白」をされるほどに好かれた理由もきっかけも思い当たらないのだ。魔法をかけた張本人が死ぬことでしか魔法が解けないというなら、レオナルドのように口先だけ、と言うわけではなさそうだ。


 もう一度、堂々巡りのように考える。前世のことを思い出した時、初めて出会った時のこと。私をやけに人間にしたがったこと。助言とも茶化しともつかない彼の言葉。海の中に引き込まれたときのいつもと違う表情。そして、初めて出会った隣国の王女。私の部屋に来た時の気まずそうな顔。なぜか、私と踊りたがった事。昨日口にした「殺してほしい」という懇願。好きという言葉。そのすべてがぶつ切りで、点でしかなく、私の中では一本の線として繋がらない。


 もう泡になることに怯える必要も、なくなった。人間として生きられるはずなのに、何かが心の中で引っかかっている。あれは何を考えたときだっただろうか。砂浜でバランスを失って倒れた時、水面に映った人魚のヒレを思い出す。私は、人間になってセアンと結ばれたいと願ったはずだったのに。胸の中のわだかまりに気付くと、また足の裏がまたじくじくと痛むような気がした。


 私はこれからどうすればいいのだろうか?

 隣国の王女は、ユリウスが魔法で変装した姿だったとするなら……城の中にはもういないはずだ。ということは、セアンとの婚約も自動的になくなるだろう。これでハッピーエンドになるかもしれない、と思うのに、喉の奥で何かがつっかえているような気がして、どうにも、素直に喜ぶことができずにいる。


「……どうして?」


 ふらふらと起き上がってベッドから下りると、いつにもなく外が騒がしいことに気付いた。隣国の王女が忽然と姿を消したのだから、当然かもしれない。私がまだ上の空のまままどろんでいると、だんだんと部屋の近くまで何人かの足音が近づいてきた。何事かと身構える暇もないまま、ノックもなしにおもむろに扉が開かれた。


「おい、今すぐ来い!」


 目に飛び込んできたのは、兵士の姿。まるで罪人を見るかのように、冷酷で幾分か侮蔑も入り混じったような目で私を見下ろしている。


「……え?」


 驚く間もなかった。あっという間に部屋に押し入れられ、有無を言わさず四方を囲まれる。これでは本当に罪人のようだ。


「あの、いったい、どういうことですか?」

「お前に質問は許されていない。良いから、来い」


 そのまま引っ立てられて、歩く様に促される。通路を歩かされるにつれて、だんだんと見えてきた。ああ、そうか。昨日の光景――隣国の王女の部屋に入る様子を誰かに見られていたに違いない。思い当たった瞬間、つうと背中を冷や汗が伝った。紛れもない事実だが、魔法使いや人魚と言った真実を述べたところで、頭のおかしい女扱いされるのがオチだ。


 考えがまとまらないまま連れてこられたのは、見覚えのある物々しい扉の前。城に来たばかりの頃に一度だけ来たことのある謁見の間のようだった。


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