◇満月 その3
ユリウスはおもむろに私の足元に転がっている短刀に目を向けると、指を鳴らした。すると重力が逆さに働いたかのように、短刀が宙に持ち上がって浮遊する。その柄が私の手のひらに自然と収まると、いよいよ追い詰められて、逃げ場がなくなったような気がした。
「さあ、どうぞ」
「い、いらないわ。私は誰も傷つけたくないの。だから、おとなしく泡になるのを待っているだけなのよ」
きっと彼には、私の考えていることなどすべてお見通しなのだろう。本当は、心の奥底ではわだかまりが残っていることも。泡になりたくない、と生きるのを諦めきれていないことも。
ユリウスは形の良い唇の端を持ち上げると、どこかあきらめたように、自嘲するような笑みを浮かべた。それから吐息を漏らすと、世間話でも始めるかのような口調でさらりと切り出した。
「姫さん。実はそれだけじゃないんだよ。あんたが泡にならずに済む方法。」
相変わらず、話が見えない。まだ隠していた条件があったとでも言うのだろうか。切り出すタイミングが遅すぎる、ときっと睨んでみせると、彼は飄々とした態度をあくまで崩さずに続けた。
「魔法はあんたの想いのままを具現化してくれる。それを叶えるための条件も代償も、今まで伝えたとおりだ。それらをすべて終わらせる方法があるとするなら……それは、魔法をかけた張本人を抹消することだ」
「……は?」
何を言っているんだろう、この人は。いつものことながら、また質の悪い冗談かと思い苦笑いしかけたが、その闇色はいつになく真剣で、視線を逸らすことは許されなかった。
「なあ、姫さん。」
彼は窓枠から下りると、一歩、二歩と私の方へと近づいた。こちらが身構える間もなく、あっというまに距離を詰められる。いつだってそうだ。こっちの気持ちなんてつゆ知らず、私が引いたはずの一線を簡単に超えてくる。
「――俺を、殺してよ。」
普通に聞いたら何を言っているんだろう、と思うような気狂いじみた台詞。それを、黒いローブを纏った魔法使いの少年は、呻くようにささやいた。喉の奥から絞り出すような切なげな声。何かを渇望するように、縋りつくように余裕のない様子に気圧されると、何も言えなくなる。彼がそのまま私の髪に触れると、どうすればいいのかわからず、びくり、と全身が震えた。その危うい空気に当てられると、深い闇の中へと引きずり込まれ、どこまでも溺れていくような気がした。
「……え?」
「俺を殺せば、すべての魔法が解ける。姫さんは泡にならずに済むんだ。また元通り、生きたまま人魚に戻れるよ」
そんなの、ユリウスにとって何のメリットもないではないか。何度逡巡しても、理解できずに唖然とする。
「何を、言っているの……? 確かにあなたがしたのは、ひどい悪戯だったかもしれないけど、だからと言って殺すだなんて、そんなことできないわ。どうして、そんな必要があるの? 何が何だか、よくわからないわ」
自分を殺せだなんて、何をバカなことを言っているのだろう。正気かと思いまじまじと彼を見つめたが、彼は相変わらずいつになく真剣で、なぜか今にも泣きだしそうなほど潤んだ目をしていた。
「悪戯、かあ。ははっ、やっぱりそう思うんだ。あーあ。俺は真面目だったんだけどなあ。」
「え? だ、だって……今まで、そんなこと、一度も……」
果たしてそうだっただろうか。戸惑いながら必死に記憶をたどる。
そんな私の様子など気にも留めず、彼は堰を切ったように話し出した。今まで抑え込んでいたものが一気に表出するかのように。まるで縁まで溜まったコップの水が、限界まで達して耐えかねたかのように、その気持ちが溢れ出していく。
「俺は……さ。姫さん。あんたを幸せにしてやりたかったよ。でもできなかった。あんたの視界には、あの王子しか入っていなかった。」
脳裏によみがえるのは、初めてユリウスと出会い、私が自分の前世に気付いた海の底。あの時、あの瞬間の彼を、果たして私はどのくらい理解できていただろうか。答えは否だ。飄々としていて決して心底を見せない、としか思わなかった。今だって、目の前にいる彼のことが、私には何一つわかっていない。
「だから、人間にして、諦めさせてやろうって最初はそう思ったんだ。諦めて俺に縋りついてくるのを待ってた。いくら声があっても、ひと月で愛の告白をさせるなんて簡単なことじゃない。それでも姫さんはやってのけようとした。うまくいったならそれでいいと、あんたが幸せならそれでもいいと、俺も初めはそう思おうとしたんだ。」
いや、果たしてそうだっただろうか。私が気づいていないだけで、いや気付こうとしなかっただけではなかったか。脳裏に駆け巡るのは、彼に引き込まれてしまいそうになり、慌てて考えないようにしてきた瞬間ばかりだった。
『……あんたは、それで幸せなの?』
セアンを諦めようとした時、ユリウスにそう尋ねられて戸惑ったことが、今更ながら蘇る。
「でも……無理なんだよ。あんたが王子の横で笑っているのを想像すると、胸が潰れたようにぎゅうっとなって、息が苦しくなるんだ。姫さんを不幸にしたいわけじゃなかったのに、気付けばうまくいかないようにしていた。ごめんね、姫さん。最低だったよな。本当は、俺……。俺は……」
「ユリウス?」
ユリウスがぱっと顔を上げた。私の肩に触れた手が熱を帯びる。そのまま再び見つめられると、射すくめられたようにその場から動けなくなった。心臓の脈打つ音がうるさい。息ができなくなるほど苦しくて、その場から逃げ出したいはずなのに、今、彼に背を向けたら絶対にいけないような気がした。
息の触れ合うような距離に、自分の鼓動まで聞こえてしまう感覚に陥る。一瞬とも永遠とも知れぬ時間が流れた後、彼が口を開いた。
時計の針は0時間近。カチ、コチ。カチ、コチ。どこか遠くで鳴っているように、時計の長針が少しずつ短針へと重なって、真上を指差す。
「――俺は、ローネ。あんたのことが、たまらなく好きだ。」
その瞬間、私の中のすべての時間が止まったような気がした。息をするのも忘れて、彼の黒の双眸に吸い込まれていく。
ユリウスが……私のことを、好き?
思いがけないその一言に、突如頭の中が真っ白になる。
「……?!」
月明かりが一斉に私を照らし出す。いつにもなく眩しいそれは、光の粒となって私の肌にまとわりついた。あまりのまばゆさに目を瞑ると、めまいのような立ち眩みを覚える。
私が再び目を開けると、先ほどまでのことはまるで嘘だったかのように、ユリウスがそこに立っていた。彼は私の様子には気づかず、困ったように笑って続けた。
「でも、あんたはきっと王子のことを愛しているんだよな。あんたを見ていたらわかる。俺、すごく苦しいよ。……こんな辛い思いをするくらいなら、あんたに殺された方がずっとましだ。」
「ま……待って!」
突然のことに動揺しかけていたが、落ち着こうと深呼吸を繰り返す。時計はすでに0時を回って数分すぎていた。これが夢でなければ、私は泡にならずに済んだことになる。
「ねえ。今のって、私を生かそうとして……?」
よくよく考えてみれば、彼が告白する理由なんて、それくらいしか思い当たらなかった。でなければ、大した役者だ。
いや、しかし彼は先ほど、魔法を解くには術者を殺すか、その条件を叶えるしかないと言っていたはずだ。ともすれは、これは口先ではなく……。
「真実の、愛の、告白?」
途端に、彼が以前口にしていたことを思い出す。
『まあ、真実の〈愛の告白〉とでも言うべきかな。言葉だけで心が伴っていないものは、もちろん当てはまらないよ。つまり、相手が真剣にあんたのことが好きで、ちゃんと言葉にするという必要があるわけだ。』
あの言葉が正しいとするなら、ユリウスは……本当に私のことを好きだということ?
今度は、彼の方が驚く番だった。
「……え?」
それから何か悟ったようにはっとした表情になると、いきなり身を翻して、瞬く間に窓から外へと飛び出していった。
「ちょ、ちょっと!!」
魔法使いだから、たぶん死ぬなんてことはないと思うが……。あわてて窓辺に駆け寄ったが、ユリウスの姿はもうどこにも見当たらなかった。
「な……何が、どうなっているの?」
夢か現実かもわからないまま、私は自分の頬をつねる。まだ心臓がバクバクとうるさい。あわてて頭を振り、朦朧とした意識のまま部屋へ戻ろうと私はふらふらと歩き出した。
そんな私たちのことなど知らず、月はひと月前と同じように大きく金色に輝いていた。
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