◇満月 その2
私がいよいよ立ち上がろうと身を起こした時だった。突然、背後から聞き覚えのある声が耳に届く。
「――いいよ。殺したいなら、殺しなよ」
その声は、あっけらかんとした口調で、何事もないように言ってのける。まさか、先ほどの一部始終を見られていたのだろうか。私はびくりと動揺しながらも、恐る恐る声の主の方を振り返った。
「ゆ……ユリウス?」
窓枠に腰掛けていたのは、紛れもなくあの海の魔法使いだった。最後に会ったのは、確か一緒に踊った時以来なのに、随分と久しぶりに感じる。夜風と共に薄いカーテンが揺れると、彼の漆黒の髪もさらさらとなびいた。満月を背にした彼の表情は、逆光と暗闇のせいか、はっきりとはよく見えない。
確かにユリウスが神出鬼没なのは知っているが、別にこのタイミングで彼の名前を口にしたわけでもなければ、呼んだわけでもない。わけがわからないまま、いつものように文句を言いそうになり、あわててはっと口を押えた。王女を起こしてしまったら一大事なので、できる限り声を押し殺して抗議する。
「どうしたのよ。用があるなら、部屋に戻ってから聞くわ」
私が軽くたしなめたところで、彼はどこ吹く風だ。いつものように飄々とした態度を崩さず、それどころかあの悪戯っぽい笑みを浮かべて、悪魔のささやきのように恐ろしいことを口にした。
「……刺さないの? 王女のこと」
「――っ?!」
まるで先ほどまでの私の思考を読んでいたかのような発言に、はからずも心臓が止まりそうになる。
「な、なにを言っているの? そんなことあるわけ――」
「あんた、そいつが邪魔なんだよね。憎いんだよね? だって、そいつさえいなけりゃ、王子と結ばれたもんね。」
つくづく、痛いところを突いてくるものだ。この魔法使いは、実は思考にまで干渉できるのではないだろうか。内心は気が動転しながらも、必死に呼吸を整えて平静を保とうと努める。
「意味がわからないわ。たとえ仮にそうだったとしても、全くの無意味よ。だって、王女を殺したところで、私が泡になることを逃れられるわけでもないし」
だが、ユリウスは私の言うことなどまるで聞こえていないのかのように、一方的に謳うように続けた。その言葉に耳を傾けてはいけないと思うのに、それは私の頭に、心に、ずしりと重りがのしかかるように、深みへと引きずり込んでいく。
「かわいそうな姫さん。王子と想い合っていたはずなのに、そいつがいるから結ばれることが叶わなかった。王子も、そいつがいるから愛の告白は絶対にしてくれない。だったら、そんな奴は消してしまえばいいよ」
「何を……言っているの?」
私の心に燻っていた火をたきつけるような口ぶりに、頭を振って必死に抵抗する。そう、さっきの動作は、ほんの魔が差しただけだ。だって、私は死期が数時間後に迫っているのだ。余裕もなければ錯乱もするだろう。
「笑えない冗談はやめて、ユリウス。王女が起きちゃうわ」
「王女? 姫さんこそ何を言っているの?」
そこで、ようやくこの違和感の正体に思い当たる。彼と私の言うことは、どうにも噛み合わない。どうしてユリウスは、こんなにも王女を殺したがっているんだろうか。
「え? だって、そこに……」
そう口にしながら改めてベッドの方を振り返ってみて、はたと気付く。いつのまにかベッドの中はもぬけの殻になっていて、あたかも初めから誰もいなかったかのように、ご丁寧にもベッドメイキングまでされている。慌てて周囲を見回してみるが、当然ながら誰もいなかった。この短時間の間に彼女が起きたというなら、物音の一つくらいしそうなものだが、いくら記憶をたどってみても、ごそごそと動いた様子もなければ、起き出したような形跡も残っていなかったのだ。
「なっ……ねえ。王女殿下は? 今起きた? どこへ行ったの? ま、まずいわ!」
私がここに居ることがばれてしまったら、今更ではあるが不法侵入罪、不敬罪どころの騒ぎではないだろう。下手すれば処刑されかねない。
私が慌てふためいたところで、ユリウスは一向に表情を変えない。唇を持ち上げたまま、さもおかしそうに私を見つめている。今にも笑い出しそうな、吹き出す寸前のような顔。そんな笑顔のはずなのに、なぜか私には泣いているように見えた。
「王女なんていないよ。そんな奴は、最初からこの世に存在しない」
さっきから、この魔法使いは何を言っているのだろう。なら、舞踏会に現れてセアンと踊った彼女は? 先ほどまでここで眠っていたはずの王女は、一体何だったと言うのだろうか。
「はあ? あなた、もしかして王女殿下に何かしたの?」
私が状況を呑み込めずに困惑していると、彼は大げさに肩をすくめてみせた。それから芝居がかったように大げさな身振りで、朗らかに告げてみせる。
「さあて。どこまでが夢で、どこまでが魔法で、現実なんだろうね?」
「……は?」
「まあ、姿を変える魔法も魔力を大きく消費するからな。正直、くたびれたよ」
そして彼が指を鳴らすと、一瞬でその顔が隣国の王女のものになる。はっと瞬きを繰り返した次の瞬間には、もう元の姿に戻っていた。
「――え?!」
一見繋がりそうにもなかった驚愕の真実が、目の前で起こっている。
ユリウスが、王女で。王女が、ユリウス……? と言うことは。
「まさか、ユリウス、あなたが……?」
驚きのあまり言葉を失う。少しずつ状況を理解しようと努める。ゲームでの真相がどうだったかは知らないが、道理でルートの通りにいかないわけだ。思えば、舞踏会で初めて見た時、あの妙な既視感の正体に気付くべきだった。そして、徐々に事実を呑み込んでいくと、その次に湧いてくるのは、疑問と怒り。
「どうして、そんなひどいことを……。信じられない! 助けるふりをして、内心では私をあざ笑っていたのね! ひどい、ひどいわ! どうして、こんな……」
今までどんな気持ちで進捗を聞いてきたのだろう。セアンのために人間になることを提案したのは、他ならぬ彼だったというのに。初めからうまくいかないように邪魔して、私を泡にしたかったのだろうか。
「そんなの……ないわよ……」
彼は黙ったまま何も言わない。それどころか、なぜか傷ついたような顔をしていた。おかしい。傷つけられたのは――嘘をつかれたのは、紛れもなく私の方なのに。
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