◇満月 その1

 ついに、今日。窓辺に浮かんだ月は憎らしいほど完璧な円を描いている。


 私はいったいどうすればいいのだろう。

 選択肢は二つに一つだ。セアンを殺して泡になることを免れ、人魚に戻るか。それとも、何もせず泡になるのを待つだけか。どちらを選んだとしても、待ち受けるのはバッドエンドのみ。あたかも断崖絶壁に立たされたまま、暗殺者と対峙しているような錯覚を覚える。どう転んでも、逃げ道なんてものはどこにも存在しない。


「セアンを殺すなんて……私には無理よ。」


 それなら……愛する人を殺すくらいなら。私は迷わず泡になって、自分が消えることを選ぶ。

 それでも、いまだこの心の中で燻っている願いはただ一つ。もう一度、彼に会いたい。ただそれだけだった。


 思わず自嘲する。今更彼に会って、どうするというのだろう。あの日以来、彼と話すのはおろか城内で見かけることすらないのだ。ましてや、今は夜。謁見なんて断られるに決まっている。


「どちらにしても、望み薄よね」


 今の私は、原作の人魚姫と同じだ。黙って誰にも知られず、泡となって消えてしまうことが決まっている。それ以外の選択肢なんて、一体どこにあるというのだろう。


「ハッピーエンドの人魚姫、か……」


 私が前世でやったゲームで言うなら、あるとしたら糸を手繰るようなか細い可能性。しかも、あのゲームはハッピーエンドに至るルートから外れてしまったら、あとは転げ落ちるようにバッドエンドを待つだけだった。


 ふと、子供向けアニメの人魚姫はどんな展開だっただろうか、と今更のように思い返してみる。確か、魔女が王女に化けていて……とかだっただろうか。そこまで思い至ったところで、あまりにも虫が良くてご都合主義な展開に、思わず苦笑してしまう。


「大体、ここだと魔女じゃなくて魔法使いだし。悪役とかでも、なさそうだし」


 そう。あの魔法使いは、気まぐれで何を考えているのかわからない。敵とも味方とも付かない存在のことなんて、気にするだけ時間の無駄だ。今は、少しでもこの状況をどうにかしなくては。もはやどうにもならないとしても。


 私は行く当てもないまま、窓から外の空を見上げた。日付が変わるまで、残りあと数時間と言ったところだろうか。


「……会いたい」


 あの泡に映ったセアンを初めて見た時、泣きたくなるような懐かしさに襲われた。そして、ユリウスにそそのかされるがままに、勢いで人間になることを決めたけれど……その選択に間違いなかったことを、今確かめたい。彼に会って、いやせめて一方的に垣間見るだけでもいいから、その思いに納得してから消えたかった。


 私はついに意を決して部屋を出ると、薄暗い廊下の絨毯を踏みしめて歩いた。セアンの執務室に案内してもらったことを思い返し、その記憶をたどりながら歩く。入り組んだ曲がり角や通路を何度も曲がり、奥の方へと誘われるように、焦燥に駆られるように歩を進めていく。 


 どのくらい歩いただろうか。突如足の裏を焼けるような痛みが襲い、耐え切れずに私は躓いて転んでしまった。


「……あれ?」


 絨毯に足を取られてしまったのだろうか。突然のことに面食らいながら辺りを見回すと、いつの間にか見覚えのある部屋の前に佇んでいた。おかしい。私は確かにセアンのいる場所を目指していたはずだったのに。首をかしげながら立ち上がると、目前の部屋のドアが開いていることに気付く。


「ここは……」


 隣国の王女。彼女の部屋に違いない。


『あきらめたらいかがですか?』


 思いがけず、先日の彼女の冷淡な一言が蘇る。すると、あの時感じた忸怩たる思いと屈辱が呼び起こされ、首を絞められているような息苦しさに襲われた。

 もしかして、あの王女は今、この中にいるのだろうか。


 思わず固唾を呑む。心のどこかで、これ以上はいけない、と警告する声が聞こえる。それなのに、わたしの身体は何かにとりつかれたかのように、私のものではないかのように、知らず知らずのうちに入口へと吸い寄せられていく。数センチだけ開いたドアの中をのぞくと、中は真っ暗だった。開いた窓からは、私の部屋から見たのと同じ月明かりが差し込んでいるのが見える。恐ろしいくらい美しい満月。微かな寝息と衣擦れの音に聞き耳を立てれば、部屋の主が寝ていることに間違いなさそうだ。


 もし。――もし、彼女がいなければ。今頃、セアンは私を選んでくれたはずだ。


 私の心の中で、今までかかっていた歯止めが壊れてしまったように、とめどない嫉妬の焦げ付いた跡がじりじりと少しずつ熱をもち、再び燃え上がろうと燻り出す。


 ずっとうまくいっていて、順調で、イベント通りに進んでいたはずだったのに。彼女が舞踏会に現れてしまったせいで、何もかもが台無しになってしまった。


 ――あなたさえ、いなければ。


 どうにも止められない炎に促されるがままに、私はいつのまにか部屋の中へと足を踏み入れていた。いけない、とわかっているのに、彼女が眠っているであろうベッドの足元まで近づいていく。膨らんだ布団の中には、きっと何も知らない王女がすやすやと寝ているのだろう。


 ふと私の足元を見下ろすと、見覚えのある短刀が転がっていた。持ってきた覚えもないのに、とにわかに胸騒ぎを覚える。不審に思って手を取って見てみると、持ち手にはヘビをモチーフにした彫刻と、中央には貝殻の装飾。どうやら、紛れもなくエリーネがくれた短刀のようだった。私の終焉を意味するような不吉で忌まわしいだけの代物だが、ふと、王女の眠っているベッドと短刀とを交互に見比べてしまう。


 ――この人のために、私は泡になるのか。


 こんな人のために。何も知らず、悠長に寝ている人を幸せにするために泡になるくらいなら、いっそのこと道連れにしてやろうか。彼女が生まれた時から手にしている人間界での地位も、美貌も、セアンに選ばれたという幸運も、すべてが羨ましくて、やりきれなくて、ふつふつと醜い感情が込み上げてくる。私にはないものをすべて持って生まれてきたくせに、私が望んだたった一人の人を奪っていくなんて。あまりにも不公平すぎる。


 ――返して。私の今までの時間を、返して。


 私がそのまま何かに突き動かされるように短刀を振り上げようとしたところで、はっと我に返った。いったい、私は何を考えているのだろう。熱に浮かされたように朦朧とした頭を振って、自らの中に湧き上がってきた闇を片隅に追いやろうとする。ここで彼女を殺したところで、自分の憂さ晴らしにすらなるだろうか。今更セアンが私に愛の告白をしてくれる保証もなければ、泡になることを免れるわけでもない。何を恐ろしいことを考えているのだろう、と自分で自分のことが怖くなる。


 そのまま、私の足はふらふらと力が抜けていく。このまま恋敵の部屋で泡になるのだとしたら、これほど滑稽なことはないだろう。


「何やってんだろ。私……」


 せめて最期の場所を探さなくては。どこがいいだろうか。海辺、セアンと歩いた城下町、舞踏会の時のテラス……? そのどれもが今から行くには間に合うかどうかもわからない。いっそのこと、窓から身を投げた瞬間に泡になってしまいたいものだ。

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