◇甘美な罠 その3

 あとに残ったのは、茫然としたままの私とカイ、それに数人の兵士だけ。夕方の海風がビュウッと吹き付けると、さすがに少し肌寒くてぶるりと身震いした。しかし、この鳥肌と粟立つような悪寒は、きっと潮風に当たりすぎたせいだけではないだろう。たとえるなら、俗に言う「嫌な予感」の類なのかもしれない。


 レオナルドの姿が見えなくなるのを見るともなしに見送ってから。私は改めてカイに向き直ると、まずはお礼を言おうと頭を下げた。


「あの! また助けていただいて……ありがとうございました!」

「ああ? 別に助けたわけじゃねえよ。」


 彼は少し顔を背けると、ぶっきらぼうに口を尖らせた。面倒くさそうに頭をかくその仕草は、およそ王子という肩書には似つかわしくなくて、思わずくすりと笑ってしまう。


「何がおかしいんだよ。ったく……。大体、お前はなんでこんなところで、あんな野郎に絡まれてんだよ」

「え、えっと……。その、殿下方と初めてお会いしたのがこの場所でしたので。潮の流れからどこからきたのかわかるかな、なんて思ってたら、急にあの方がいらっしゃって……」


 苦し紛れの言い訳を軽く受け流すと、カイは苛立たしげに舌打ちした。


「お前はもう少し、自分の立場と言うものを考えろ。」

「ええ? 立場も何も、私には何の地位も利用価値もないではありませんか。監視を外したのはそちらですし」

 

 別に城に閉じこもっていろと命令されていたわけではない。自由にしていいと言われたはずだ、という意味も込めて私が困惑気味に答えると、彼は呆れたようにわざとらしいため息をついてみせた。


「あのなあ。ここらは城の警備の範囲だ。そうじゃなきゃ、こんなに早く駆けつけられるわけがないだろ。ま、逆にここでよかったということか……」


 それを聞いた瞬間、さっと血の気が引く。ということは、さきほど私の水面に写った姿も見られていたかもしれない……ということだろうか。


「そ、そうですか……」


 狼狽のあまり声が震えたが、彼はそれを気に留めるそぶりはつゆほど見せなかった。


「そういやお前、もうどこの国へ行くかは決めたのか?」


 そのまま明日の天気を訊くような口ぶりで無造作に尋ねてくる。……どうやら、バレてはいなさそうだ。


「えっと……まだ決めてない、ですけど」


 私がしどろもどろに答えると、彼はやれやれとでも言わんばかりに大げさに肩をすくめてみせた。


「さっさと決めないから、あの野郎も調子に乗るんだろうが。大体、あいつがわざわざお前一人のために、ここに残ると思うか? 前に取り逃がした海賊のことも気になるしな。まあそれでもロゼラムに行くというなら止めねえが……くれぐれも、城のことは何も口外するんじゃねえぞ?」


 どすの利いた声に改めてびくりと身がすくむ。彼ならそれこそ、刺客を送ることなど造作もないだろう。


「あの。ロステレドここに残る、っていう選択肢はないんですか?」


 ふと、前から気になっていたことをおずおずと切り出すと、彼の琥珀色の鋭い目は珍しいものを見るかのように丸く見開かれた。


「お前……。それは、自分の出自がわからないままでもいい、ってことか?」

「そ、それは……」


 言葉に詰まる。確かに、もともと城に入れてもらったのも、身元確認と保護が名目だった。いまさら放棄するなんて、彼にもセアンにも申し訳が立たない。


 カイはしばし逡巡したが、あくまでも他人事とでも言わんばかりに、顔色を変えず続けてみせた。


「国内のリストにもお前と思しき情報がないなら、ここにいる意味はねえだろ。まあ、戸籍がない孤児というのも考えられるが……お前の歳まで、どこの孤児院にも保護されていねえってのも考えにくいよな。ま、どうしてもロステレドに残りたいんだったら、とっとと仕事を見付けて働くことだ」


 それはそうだろう。私がこうして厚意に甘えて衣食住を確保できているのも、すべてセアンのおかげなのだ。それでも、どこか突き放されてしまったようで、なぜか寂しくなる。おかしい。カイに突き放されるなんていつものことなのに、今は私が糸の切れた凧のようで、ふわふわと自分の行き先が何とも不透明でおぼつかない。 


「そうですか……」


 きっと、すぐそばまでタイムリミットが来ているせいか、いつもよりもそこはかとない不安を覚えているのかもしれない。


「そろそろほっつき歩くのも気が済んだか? なら、さっさと戻れ。明後日までには、どうするか決めてもらうからな」


 カイは深くため息をつくと、相変わらずめんどくさそうに言い放った。


「……わ、わかってます。」

「じゃあな。」


 そう言い残すと、もう話が終わったとでも言わんばかりに足早にその場を去って行ってしまう。


「……はあ」


 ため息が出る。夕陽はとうに水平線の下に沈み、空には星が瞬き始めていた。もうすぐ、忌まわしいほどきれいな月が昇る。きっと今日はより満月に近いほど。苦しいほど美しい円に近づいているのだろう。そう思うと絶望の淵に立たされように心が沈み込んでいくような気がした。

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