◇甘美な罠 その2

 このままあの海賊にさらわれた時と同じように、船に乗せられて知らない場所へ連れていかれるのかと思うと、身の毛がよだつような悪寒が走った。もう、なりふり構わずその手に噛みつこうともがく。


「や……で! 私……はっ!」


 私はものじゃない。あなたの好きなようにはさせない。無我夢中で頭を振ると、あっけなく口を塞いでいた手が外れた。少し拍子抜けしつつも、私は荒い息を整えながら手も振りほどこうと身をよじる。


 ちょうどその時、タイミングよく波の音に紛れて誰かの近づいてくる足音が聞こえてきた。はっとしてそちらを見やると、聞き慣れた声が潮風と共に届く。


「その姿はロゼラムの第三王子――レオナルド殿下とお見受けいたしますが。こんな辺鄙へんぴなところに、何の御用でしょうか。」


 音もなくそこに立っていたのは、赤毛の精悍な青年。力強い眉が今は怪訝にひそめられ、琥珀色の鋭い目はロゼラムの王子を威圧するように射すくめている。


「かっ――カイ殿下?!」


 彼も決して心を許してはいけない相手の一人であるはずなのに、不覚にも強張っていた全身の力がふっと抜けていくのを感じた。


「……って、はあ。誰かと思えば、またお前か。本当に、面倒ごとを次から次へとよくもまあ……」

「おっと、これはこれはカイ殿下じゃないか。奇遇だねえ」


 レオナルドは私の手首をつかんだまま、振り返った。二人の間に見えない火花が散る。舞踏会の時と言い、カイに邪魔されてばかりの彼は、言葉にこそしないものの、どこかその口調にはとげとげしさが混ざっていた。


「あ? つか……まだ国へ帰ってなかったのかよ。何を企んでやがる」

「なあに、観光がてら僕だけ残ることにしたんだよ。そんなにいけないことかなあ?」

「一国の王子がこそこそ嗅ぎまわるような真似か。ロゼラムも悪趣味だな」


 カイの身には明らかに殺気がまとわりついていた。彼は何かとロゼラムを警戒しているのだ。私にこそ向けられていないからいいものの、レオナルドとはまた違った種類の迫力がある。別の意味で冷や汗をかきながら、私は一触即発の応酬を固唾を呑んで見守ることしかできなかった。


「おや、怖い怖い。まさかその腰の剣を抜くつもりじゃないだろうね。そんなことしたら、国際問題になっちゃうよ?」

「はっ、どの口が。大体お前がここに居ること自体、どう考えてもおかしいだろうが。斬られたところで、文句は言えねえよなあ?」


 今の隙に逃げ出そうと、私は手を振りほどこうと軽く身じろぎしたが、レオナルドは私の手首をがっちりと掴んだまま、この瞬間にも離すまいとしている。


「……まさか。その女が目的とでも?」


 すると、ロゼラムの王子の表情はわざとらしくほころんだ。私を見つめる甘い瞳はとろけるようで、最愛の恋人を見ているかのようだ。


「そうだよ。言うならば、一目惚れってやつかな。……初恋なんだ」

「ふん、何人もの愛人を囲っておいて、よく言うな」


 夕陽が落ち、二人の影が砂浜に濃い色を落とす。薄暗くなっていく中で、そう離れた距離にはいないはずなのに、互いの表情は陰ったように見えない。ただ、ダークブロンドの男の少し上がった口元だけが、妙に心を騒がせる。


「ロステレドの陛下だって、君の母上に初恋だったようじゃないか。順番なんて関係ないだろ」

「っ?! て、てめえ! どこでそれを――」

「周辺諸国には言わずと知れた話だよ。知らないのは本人ばかりってね。ロステレドと国交を結ぶために、妃を嫁がせようとする国は山ほどあったけど、すべて無下にされてきたからねえ。そんな陛下の心を射止めたのは、東方の名も知れぬ女。ねえ、君も純愛から生まれたなら、僕の彼女への気持ちもわかってくれるよね?」

 

 あくまで自分は本気なのだと言う彼の表情は、夕闇に紛れて見えない。

 しかしながら、カイの母親の話を持ち出すのはいかにもまずいだろう。何せ、彼女は自ら命を断って亡くなっているのだ。レオナルドがそのことも知ったうえで発言しているのだとしたら、これ以上底意地の悪いことは無い。

 案の定、カイの怒りはぱっと薪に火が付いたように勢いよく燃え上がった。


「てめえ……! それ以上口にしたらぶっ殺すぞ!」

「おっと、それは殺人予告。つまり脅迫かな?」 


 たぶん、レオナルドのあれはわざとだ。熱しやすいカイを煽って、自らが優位に立とうとするための策。何がしたいのか底が見えず、私の肝はひたすら冷えっぱなしだ。


「あ、あ、あの……」


 私はとりあえずこの場を収めなければと口を出してみたが、如何せんどうすればこの二人をなだめられるのか、皆目見当もつかなった。そうこうしている間に、カイの後ろを追うようにして数人の兵士が駆け寄ってくる。


「殿下! 単独行動はおやめくださいとあれほど申し上げたはずでは――あれ? その者たちは?」


 多勢に無勢と判断したのか、それを認めたレオナルドはあきらめたようにぱっと私から手を離した。そのあっけなさに唖然としながらも、彼は悠長に微笑みながら片目を閉じてみせる。


「どうやらタイムリミットのようだね。じゃあ、ローネちゃん。君がうちの国に来てくれるのを楽しみに待っているよ。また会おうね」


 そして、彼はあっという間に踵を返すと、元いた港の方へ去っていってしまった。

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