◇甘美な罠 その1
「さて、と……」
それとは対照的に、今度は同じように砂浜を踏む足音が近づいてくる。確実に私のいる岩場へ向かってきているようだ。一歩、二歩と迫るにつれて、私の背中には冷や汗が伝った。もしや、気付かれたのだろうか。もともと隠密行動は不得手なため、そうだとしてもおかしくはない。
不意に、舞踏会でのレオナルドのことを思い出す。甘い笑みで固めた、冷徹な瞳の奥。瞬間、突然の孤独に襲われた。今の私には、護衛もいなければ味方も誰一人としていない。私を探しに来てくれそうな者も心当たりはない。一人で彼と渡り合える自信など少しもなかった。
なぜ、今ここに彼がいるのだろう。ロゼラムの王子は、もう何日も前に帰ったはずではなかったのだろうか。いろいろな疑念が渦巻いては、うまく整理することができずに、ぐるぐると頭の中を埋め尽くしていく。
「お嬢さん。いつまでそうやって隠れているつもりかな?」
「――っ?!」
そうこうしているうちに、岩の向こうから鋭い声が飛んできた。ばくばくとうるさい心臓を必死に押さえつけながら、私は観念してそろりと顔を出すことにする。
そこに立っていたのは、あの黒いフロックコートに身を包んだ青年だった。少し癖のあるダークブロンドに、緑の瞳。紛れもなく、ロゼラム国第三王子のレオナルドだ。鼻筋の通った涼しげな顔立ちには、見る者を惹きつける微笑が浮かんでいる。
「ふふっ。国へ帰るふりをして、残っておいてよかったよ。まさか、こんなところでまた君に会えるなんてね」
声が出ない。翡翠のように澄んだ美しい瞳は、静かに私を見下ろしている。蛇に睨まれた蛙のように、私は身じろぎ一つできないまま、汗ばんだこぶしを握り締めていた。
「おや、大丈夫? びっくりして立てなくなっちゃったのかな。さあ、お手をどうぞ。美しいお嬢さん。――いや、ローネちゃん。だったかな?」
すっ、と慣れたように白い手袋で包まれた手のひらが差し出される。振り払うわけにもいかず、早く立ち上がらねばと思うのだが、私の身体は思考と分離してしまったかのように、言うことを聞かなかった。刃を向けられているわけでもないのに、あたかも断崖絶壁に追い詰められたようだ。
「あっ……あ、あの」
「うーん、ひどいなあ。僕はただ、君との再会を喜びたいだけなのに。どうしてそんなに怯えているの?」
レオナルドは鋭い瞳で私を射すくめたまま、一歩、また一歩と岩を挟んだこちら側へ確実に距離を詰めてくる。ここで会ったが最後、もう逃さないとでも言いたげだ。
きっと彼は、私が先ほどまで盗み聞きしていたことも全てお見通しなのだろう。とりあえず逃げなければ、と腑抜けた身体に叱咤激励して、勢いをつけて立ち上がる。
「あ、あの! 私、もう行かなきゃ――」
「せっかく会えたのに、随分とつれないんだね。もう少しおしゃべりしていこうよ。せっかく会えたんだから。」
うっ、と言葉に詰まる。彼は言葉巧みに私を逃そうとしない。いや、逃がすつもりなど毛頭ないのだろう。私の様子には構わず、彼は心底嬉しそうにそのまま続ける。
「運命ってあるんだね。君はきっと、僕の国に来るんだよね? そうに決まってる。確か……期日は明日までだったかな? 使者を待つのももどかしくて、僕はずっとここに残って待っていたんだよ。せっかくなら、君と一緒に国へ帰りたいじゃないか」
「え、えっと……?」
彼の言うことはどこまで本当なのだろうか。もしその言葉に嘘偽りがないとするなら、先刻の会話から考えると……おそらく、人魚に近しい私を利用して、情報を引き出そうという魂胆だろう。何やら不穏な空気だったのだ。
まあ、私は明日には泡になるのだから、どのみちどこへも行くつもりはないのだが。
「ごめんなさい。実は、まだ決めてなくて……」
「ロゼラムは良いよ。飯はバリエーションが少ないけど、酒は美味い。ああ、でも君はまだ飲めないのかな。なら、紅茶をお勧めするよ。ロゼラムの紅茶は東方から安定的に供給されるから、種類も豊富で品質も上等だ。それに合わせた菓子はとても美味なんだよ」
「は、はあ……」
彼は私には構わず、一方的にあれやこれやと捲し立てている。
「ドレスや宝石も、お望みなら王室御用達の職人に作らせて、一流のものを用意してあげよう。行きたいところには、どこへでも連れて行ってあげるよ。金ならいくらでもあるからね。君に何ひとつ不自由はさせない。今いる愛人も、君が嫌だと言うなら後宮から追い出してあげる。衣食住の保証どころではない、贅沢三昧を叶えてあげるよ。君を見初めた僕には、感謝してほしいくらいだね。こんな安っぽい王宮よりも、よっぽど素敵なお姫様になれると思うよ?」
聞けば聞くほど聞き入ってしまいそうな夢のようなおとぎ話に、砂糖のような甘い口上。けれども、そんな彼の誘惑も今の私にはどこか空虚に聞こえた。それは、私の気持ちが少しもレオナルドに向いていないから、だけではない。ただ「真実の愛」とは程遠く、彼は本当の意味で満たされることは決してないのだ、という虚しさだけが伝わってくるのだ。
「――さあ、おいで。僕を選んで?」
彼が優しく手を取る。壊れ物を扱うかのような繊細な仕草に見せかけて、案外その力は強い。今まさに誘拐されんばかりの危機に陥っている一方で、頭のどこかは冷静にあのゲームのことを思い出していた。きっとレオナルドのルートの主人公は、そんな彼に同情して、いつしか惹かれていくのかもしれない、と考える。
だが、あいにく今の私には、彼に構っている余裕など皆無だ。もし逆上したらどうしよう、と迷いつつも、慎重に言葉を選んでいく。
「あの……殿下。お気持ちは大変ありがたいのですが、私は贅沢がしたいわけでも、あなたの愛人になりたいわけでもありません。」
「ふーん。それは、どうしてかな?」
レオナルドの顔からは甘美な笑みが消え、途端にあの凍てつくような冷たさが宿った。首を絞められているかのような圧迫感に怖気づきながらも、私はそのまま懸命に絞り出す。
「足るを知る、という言葉があります。私はどこの馬の骨ともわからない者ですから、殿下とは住む世界が違いますし、それだけを理由に行き先を決めることはできません。」
「なるほどね。でも、どうせ僕は王位なんて継承できないんだから、無問題だ。どこかの誰かさんとは違って、身分差なんて心配いらないよ」
――身分差。セアンのことを言っているのだとしたら、皮肉なものだ。ふと、もしこのままレオナルドの手を取ったら、どうなるのだろうと思いかけるが、慌てて何を血迷っているのかと自嘲する。
「いえ、そういう問題では……」
もし仮に彼から愛の言葉が聞けたとしても、きっと口先だけのもので、ユリウスの言う「真実の愛」とは程遠い。彼が私に対して抱いているのは愛なんて崇高なものではなく、ただ珍しい物品としての興味だけだ。そんなものに自分の運命を賭けてみる度胸など、あいにくない。不正解とわかっていて、間違った選択肢を選ぶようなものだ。
「あの。急ぎますので、そろそ手を離していただけませんか?」
うろたえた気持ちを振り切るように手を引こうとするが、びくともしない。はっとして、もう一度。今度はやや強引に振り払おうとするが、いくら私が力を込めたところで、彼の右手はまるで蝋でがっちりと固められたかのようにぴくりとも動かなかった。焦って腕から引こうと肘に力を入れてもがいてみるが、足元がふらつくばかりだ。もはや砂浜まで彼に味方したかのように、私の足を捕らえて深みへと飲み込んでいく。
「嫌だね。もう絶対に離さないよ。ずっと決めていたんだ。僕は君に興味があるんだから。何としてでも、一緒にロゼラムへ帰るんだよ」
「――?!」
混乱したまま顔を上げると、いつのまにかすぐ上にレオナルドの顔があった。鼻筋の通った涼しげな顔立ちからは、心なしか殺気を感じる。逆らったら殺す、とでも言わんばかりの迫力に、思わず茫然となった。急いで叫ぼうと息を吸い込むが、その口もむなしくもう一方の手で塞がれてしまう。まさに、八方塞がりだ。
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