◇繋がる企み

 私はそのまま、ドレスに付いた砂を払おうと裾を持ち上げた。ふと、夕陽に照らされて鏡のように反射する海に映っていたのは、いつもの私――ではなかった。よくよく目を凝らして見ると、何かがおかしい。静まった波の間で、なおも揺らぐ水面に目を注ぐ。濃紺のドレスの裾から出ているのは……人間の足、ではない。なぜか鱗に包まれた尾ひれだった。


「――えっ?」


 状況を掴めないまま二、三回瞬きする。実際に足先を見下ろせば、いつも通り靴を履いた白い足のままだ。


「な……なんで? まだ、あと一日あるはずなのに」


 もう一度確かめようとしたところで、まるで先ほどのことは幻だったかのように、波が一斉に動きを取り戻した。寄せては返し、岩にぶつかっては飛沫を散らし、止まっていた時間が動き出したかのようだ。


「どういうことなの?」


 一瞬のことなのに、あの鱗が鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。もしかして、私は日数を数え間違えていて、今日が最終日……とかなのだろうか。いや、そんなことはない。確かまだ一日あったはずだ。落ち着け。呼吸を整えろ。


 私はすうっと深く息を吸い込むと、頭を空っぽにするように吐き出した。何回かそれを繰り返した後、砂に手をついて必死に歯を食いしばり、つま先に力を込める。おぼつかない足取りでなんとか立ち上がると、ふらつきよろけながらも闇雲に足を踏み出した。


 ふいに目を上げると、港の方から二人の男が歩いてくるのが視界に入ってきた。予想外のことに狼狽し、鼓動が早くなる。初めてここで会った時のカイの言葉が正しいとしたら、ここは関係者以外立ち入り禁止のはずだ(かく言う私も三回くらいは立ち入ってはいるのだが)。いったい、誰だろうか? これといった根拠はないが、なんとなく嫌な予感がする。


 私は身をかがめると、沈み込んでは捕らえようとする砂浜に翻弄されながらも、どこかに隠れる場所はないかと周囲を見回した。ちょうど近くの波打ち際に、せりだした大岩を見付け、陰に隠れてひっそりと息をひそめる。


 男たちはゆっくりとこちらへ向かって歩いてきている。顔を確認する暇もなかったため、どこの誰かなど見当もつかなかったが、潮風と波の音から漏れ聞こえてくるのは、どこか聞き覚えのある声だった。


「……で、本当にこの辺りにいたの?」


 そう口を切ったのは、黒のフロックコートを羽織った長身痩躯の青年のようだった。かろうじて声が聞こえるくらいの距離にいるその声に、耳を澄ます。聞く者を蕩けさせるような、少し鼻にかかったような甘美な声色だ。しかし、どこかそれだけではない何かを含んでいる。そう、彼の声をたとえるとするならば……氷でできた花のようだ。


「ええ、いましたよ。殿下」


 それに答えたもう一人の男は……ぱっと見ただけだったが、大柄な男であることはすぐに見て取れた。船乗りらしきラフな格好で、きっちりと身を固めた相手の青年とは、何ともミスマッチな取り合わせだった。男の声は低く太い。脅されているわけではないのに、何とも凄味がある。


「しーっ。その呼び方はやめな」


 青年がため息交じりにささやいた。やはり、どこかで聞き覚えのある声だ。顔を確認しようかと迷うが、もう少しだけと耳をそばだててみる。


「これは失礼、レオ様。そうそう、あの女よりももっと赤茶っぽい髪だったか。なんでも、顔も似ていたとか」


 ――レオ、様。どこかで聞いたことのある響きに引っかかる。これはますます確かめなければ気が済まないが、心のどこかでやめておいた方がいいという声が聞こえる。はやる気持ちを無理やり押さえつけ、もう少し様子を伺おうと私は平静を保った。


「ふーん。で、会話の内容は?」

「さあ。俺もちょっと思い出せねえなあ。あっ、もっと金貨を頂ければ思い出せるかもな」


 ついに我慢できなくなり、いけないと思いつつも私はおそるおそる岩陰から顔を出した。刹那、あっと声が出そうになる。フロックコートの青年が苛立たしげに舌打ちして、懐から何か男に握らせたのが見えた。青年の鼻筋が通った顔立ちに、ゆるやかにウェーブがかったダークブロンドの髪。間違いない。彼だ。


 私はあわててぱっと口を押えると、すぐさま身を隠して体勢を整えた。吹き付ける海風すらも、今の私の動悸や声にならない悲鳴をかき消すには、なんとも心許ない。


「ああ、そうそう。思い出した。女は肩までの髪で、あの女に何か渡してたらしい。まあ、場所が場所なんでさすがに生け捕るわけにはいかなかったんだが……そのまま、すぐに海の中に潜っていなくなったぜ。まあ、気狂いとかでもなきゃ確実に人魚だろうな」

「人魚……ふふ、まさか本当にいたとはねえ。調べてみる価値はありそうだね」


 ――腹黒国家ロゼラムの第三王子、レオナルド。道理で、見覚えがあると思ったわけだ。彼が先日の舞踏会で見せた凍てつくような甘い笑みを思い出し、私の背筋はぞわりと粟立った。


「ここらの船乗りは、たまに若い女の人魚を見かけるとか聞くぜ。ま、大概が酔っ払いだがな。しっかし、王子様ともあろうお方が、俺のような端くれとつるんでると知られたら……貴族派の連中が黙っちゃいねえだろうなあ」

「いいんだよ。どうせ僕は、王位なんて継承できやしないんだ。このまま兄上に仕えるのもしゃくだし、僕は僕で好きにやらせてもらうよ」


 私はまだ荒い息を整えながら、逡巡した。彼もまた、あのゲームでは人魚に興味のある人物として描かれていただろうか? もう薄れかけている記憶の糸を必死に手繰り寄せながら、必死に思い返してみる。


 レオナルドルート……隣国ロゼラムとの戦争。あの戦で、主人公は人質としてロゼラムに渡った後に、人魚だとばれて……。もし好感度が足りなければそのまま利用され捨てられて、足りていたら……? いや、どちらにしろ今後彼のルートに進むことはまずないのだ。今はそれどころではない。


「プレイボーイで新し物好きなのは、ほんと相変わらずだな。あの王子の愛人がそんなにいいのかね? 確かにちょっと珍しい感じではあったが、綺麗な女ならほかにいくらでもいるだろ」

「ふふっ……君も海賊ならわかってくれると思ったんだけどなあ。人のものだからこそ、奪い甲斐があるんじゃないか」

「ああ、それならわかるかもな」


 しかしながら、現時点で人魚だとばれている、なんて話はあっただろうか。

先ほどの会話と照らし合わせてみて、無い知恵を必死に絞ってみる。髪の短い女……あの女よりも赤茶……。


 すぐにはっと思い当たる。エリーネのことだ!

 数日前に姉に短刀を貰った夜。あの時に、誰かに見られていたということだろう。この大男があの時私を誘拐し、セアンたちが取り逃がした海賊だとして……あの状況もルートにないことだったから、今になってあるはずのない出来事が起こり、状況が狂ってしまっているといったところだろうか。だとしたら……ますますややこしいことになってしまう。


 どくどくと鼓動の脈打つ音がうるさいくらい高まっていく。突然の状況をうまく呑み込むことができずに、私の頭の中は混乱を極めていた。こんなこと……聞いていない。


「しかも、人魚と知り合いと来た。あの娘を手に入れれば、芋づる式に人魚もついてくるかもしれないってことさ」


 その瞬間、岩を隔てて向こうにいるはずの男がこちらを見ているような気がした。彼との間にはどんな障壁があったとしても、きっと意味をなさないのだろう。なぜか、すぐそばで彼の視線を間近に浴びているような錯覚を覚える。


「では、俺はここらで消えることにしますよ。っと。また追手が来たら面倒なんでね。ではレオ様、また明後日。報酬、弾んでくださいよ?」

「ああ、ご苦労だったね」


 唐突に大男の足音が遠ざかっていった。砂を踏みしめるざくざくという音が一歩、二歩と小さくなっていくにつれて、恐怖へのカウントダウンが始まっているような気がした。


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