◇あと一日

 残すところあと一日となった。実質、時間はもうゼロに等しい。セアンには当然会えるはずもなく、城内でもあれから一度も見かけていない。それでいいのだ、と自分に言い聞かせる。今更彼に会ったところで、一体何を言うつもりなのだろうか。


 城に籠りきりなのも、刻一刻と迫ってくる時間が焦燥だけを募らせていく気がして、逃げるように城を出た。逃れられるはずもないのに、とにかく忘れたかった。


 町に差し掛かると、地味な濃紺のワンピースドレスの上から、黒いマントを羽織る。人目を引きそうな髪はその中に押し込み、できるだけ目立たないよう目深にフードを被った。ドレスのポケットには、セアンからもらった髪飾りが忍ばせてある。与えられた服の他は無一文のため、念のため持ってきた唯一の私物だ。


 あのさらわれた現場は、町外れのさみしい裏通りにある酒場だった。あの辺りにはなるべく近づかないようにして、賑やかな露店の並ぶ大通りを歩く。


 そういえばこうやってセアンと初めてここを歩いた時は、こんなことになるなどつゆほども思わなかった。ただ、ひたすら前進しようともがき、浮き足立っていた。あの頃が急に懐かしくなるとともに、胸がえぐられるようにいたたまれなくなる。私は知らず知らずのうちにうつむき加減になり、唇を噛み締めていた。あの時から今まで、どこを間違えたんだろうか。どうすれば、私は正解へたどり着けたのだろうか。


 道行く人々は誰もが楽しそうで、物を売り買いし、うわさ話をし、好き勝手に走り回り、とても自由に見える。私はいったい、こんなところで何をしているのだろう。今の私は誰の目にも映らない空気みたいだ。城の中でも、この町でも、誰も私のことなど気にも留めない。きっと泡になったらこんな感じなのだろう。確かにそこに存在しているはずなのに、いないもののように扱われる。だって、私は誰の特別にもなれず、誰の瞳にも映らないのだから。


 いつ城に帰ろうか。このまま野宿をするわけにもいかないことはわかっているものの、かと言ってすぐに戻ってしまうと現実に引き戻されるようで、躊躇する。手持無沙汰にポケットを探ると、手のひらに伝わってくるのは、あのざらざらとした貝殻とつるりと滑らかな真珠の手触りだった。


「さあさあ、不用品はなんでも高く買い取るよ! がらくたから宝石まで、うちはロステレド一の高値だ! 今日の目玉はなんとこのアクアマリンの耳飾り! さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」


 商売人の言葉が耳に届く。セアンからもらった、何よりも大事なはずの髪飾り。一夜の宿のために売ろうものなら、大層バカげている。……どうせ明日には泡になるというのに。


 振り返ると、向かいには見覚えのある店があった。青緑を基調にした店内には、貝殻や色とりどりの宝石を使った装飾品が立ち並ぶ。間違いない。セアンにこの貝殻の髪飾りを贈ってもらったお店だ。店内に展示されていた品は色を変え、今は真珠とサンゴをモチーフにしたネックレスが飾られていた。新作……なのだろうか。値段はよくわからないが、露店のものの十倍、下手したら百倍はしそうな勢いだ。それを見てしまうと、やすやすとこれを手放すことはできそうになかった。


 私は嘆息すると、喧騒から逃れて誘われるように海の方へ出た。港には商船が立ち並び、船乗りたちが威勢のいい声をあげている。その中にきらびやかな装飾が施された遊覧船を見付けると、にわかにセアンと船に乗ったことが思い出された。



『ああ、そうだ。例えば、何かこう……大きな力で自分の運命が決まっているとしたら、どうする?』


『どうあがいても、そこに逆らうのは無謀ともいえるような運命だ。まるで、そうせざるをえない、そういう定めなのだと言うかのように』


 私は、彼の言葉に対して偉そうにも「抗い続ける」と言ってのけた。それが、今はどうだろう。何度も挫折して、何度もくじけて、もはや諦めそうになっている。「今」良いと思うものを選んで、後悔はしないはずだったというのに。むしろ悔恨ばかりだ。


 不意にあの刹那、私の両手を包んだしなやかな指先が蘇ってきた。海風の冷たさとは対照的な、合わせた手からのあたたかい温もり。熱を帯びた頬。優しく澄み渡った空。あの時のことを思い出そうとしても、もうぼんやりとしていてはっきりしない。


 しかし次の瞬間、鮮明なフィルムのように想起されたのは、脳裏に焼き付いた黒。

思わずはっと我に返る。視界一杯に広がり、何か言いたげに揺れる切なげな色。瞬きの音が聞こえるのかと思うほどの距離。途端に顔に火が付いたようにかあっと熱くなり、私はあわてて首を振った。


 これは、勘違いだ。向こうはただの気まぐれで面白がってやっているだけ。そんなものを本気にして顔を赤らめるなんて、どうかしている。


 いつのまにか辺りはだんだんと日が落ちて薄暗くなり始めていた。黄昏時。夕陽の赤が海に映り、橙色の光を散りばめている。紅の絵の具をこぼしたようなその中には、私が映っていた。この顔にもだいぶ見慣れた。絶世の美女と言うわけではないものの、愛らしい面立ちの少女。もうずっと前からこの顔だったように、前世の記憶などどこか遠い過去のように薄れていっているのがわかる。


 人気のない城の裏手に回って、波打ち際を歩く。初めてここを歩いた時は、おぼつかない足取りで、それどころか焼けつくような痛みのあまり、ほとんど歩けなかった。懐かしくも苦い記憶に複雑な気持ちでいると、ふと足の裏に違和感を感じた。ちくちくと針で刺すような、あの時と同じようでどこか異なる種類の痛み。大きなものではないが、見逃せない、たしかにそこにある不快感。


 靴の中に砂か小石でも入ったのかと思い立ち止まると、突然両足が平衡感覚を失ったかのようによろめき、たまらず膝を付いてしまった。もしかすると、私はどこか悪いのだろうか。立ち上がろうと足に力を入れるが、下半身は別の何かに支配されたように言うことを聞かない。何が起きているのかわからないまま、私は見るともなしに水面を見やった。

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