◇北の隣国 その3

  

                  ***



 頭が働かないまま足を動かし、絨毯に足を取られそうになりながらも闇雲に進んでいくと、運悪くすぐ近くの部屋のドアが開いた。ここは……客室、だろうか。考え事にふけっていたあまり反応が遅れてしまう。


「あっ……」


 暗い色のドレスを纏った、見覚えのある華奢な女性。艶やかな黒髪が印象的で、線が細く顔が小さいあの人。その大きな丸い瞳にとらえられると、射すくめられたように動けなくなる。情けなくも、私はその場に棒立ちになった。


「ユリア……殿下?」


 彼女と視線を交わすだけで心臓を掴まれているように苦しいのに、なぜかどこかで会ったような気がして懐かしい。そのまま立っているわけにもいかず、慌てて付け焼刃の会釈をしようと膝をかがめ腰を折った。彼女の視線が、一方的にこちらへ注がれているのを感じる。その顔は隙が無く何も読み取れない。ふと、王女は私のことをどう思っているのだろうか、と考えてみて自嘲する。セアンに横恋慕する邪魔な女……とでも思われていそうだ。


「ご機嫌麗しゅう」


 喉の奥がカラカラに乾いて声がかすれる。平静を装うとすればするほど手に汗がにじみ、足元がふらふらとおぼつかなくなる。気を抜いたら、そのまま頭から床に突っ込んでいきそうだった。


「……ええと、どなただったかしら?」


 鈴を転がすような声が困惑の色をにじませる。それはそうだ。彼女は一国の王女。挨拶に来る貴族や王族は数知れず、舞踏会で見かけただけの私のことなど覚えているはずもなかった。それすらもみじめで、相手にすらされていないのだと思うと悔しくて恥ずかしさに顔が熱くなる。


「ローネ……と、申します。わけあってこの城に滞在しております」


 彼女と比べるのは何もかも間違っている。それでも、今の私が彼女に勝てることなど一つもなかった。地位も、美貌も、名声も、富も。私のすべては彼女に劣っている。セアンが王女を選ぶのは至極まっとうなことであるのに、いざ彼女を目の前にすると仕方ない、と割り切ることができなくなる。


「そうでしたか。ごめんなさいね。」

「いえ……とんでもないです。あの、セアン殿下と婚約されるんですか?」


 訊かなければいいものを、気になるあまり私はやおらに切り出した。その事実を確定させたところで、どうするのだろう。自傷趣味でもあったのだろうか、と自分で自分のことがわからなくなる。


「詳細は語れませんが、そう噂されているんですね。……ところであなたは、セアン殿下の何なのですか?」


 決して責め立てるような口調ではないのに、なぜか咎められているような気分になりながらも、改めて逡巡する。――私は、セアンの何なのだろう。

 愛の告白をされたわけではないから、当然恋人ではない。少し気にかけてもらって、一緒に出掛けて、誘拐されたときは助けてもらって。初めから意識はしていたが、尊敬の念と共に憧れにも似た恋心を抱いていた。


 彼だって、私のことを憎からず思っていてくれたことはわかっている。それでも、言葉にされていないというだけでこれほど自信がなくなるのだから、不思議だ。

私はちょっと構ってもらったくらいでつけあがって、まるで自分が恋人にでもなったかのように調子に乗って……何を舞い上がっていたのだろう。

 様々な思いが入り乱れて、何を言葉にすべきかもわからなくなり、思考回路がぐちゃぐちゃになる。


「私は……そうですね、殿下の何でもありません。ただ、個人的にお慕いしていたというだけです」


 私の言葉を静かに聞いていた王女から、次の瞬間に放たれたのは氷のように冷たい一言だった。


「そうですか。では――諦めたらいかがですか? 殿下とあなたでは、背負うものがあまりにも違いすぎます。」

「は……あはは。そうですよね。ええ、ちゃんとわかっています。」


 何をへらへら笑っているのだろうか。そう思っても、本心を隠して取り繕うには口角を上げるしかなかった。ともすればこらえた涙が零れ落ちてしまいそうで、自分の心を守るために、道化になりきり同調する。目の前が霞むのも構わず、私は嗚咽しそうな喉の奥深くから、精いっぱいの笑い声を絞りだす。


「わかって……ますよ? ふ……ふふふ」

「……」


 今まで何一つとして感情を表に表さなかった王女の方も、よく見るとなぜか何かを押し殺しているかのように、何とも名状しがたい面持ちをしていた。

 どうしてそんな顔をするのだろう。どうせ敵対するなら、もっと嫌味で性格が悪かったらよかったのに。それでも、理不尽な心の暴走は留まることを知らない。

 あの舞踏会で王女が出てくるまでは、紆余曲折あれど順風満帆だったのだ。それを壊してしまったのは、ほかならぬ彼女だ。 


 あなたさえ、いなければ。

 ――殺して、やりたい。


 そう思った瞬間、ふっと手の中にあの短刀の感触が蘇る。あわてて私は両手を組んで後ろに回した。


「気持ちを制限しろだなんて、そんなことは申し上げておりません。ただ、その思いが少々不愉快なのは確かです。私の立場が脅かされているわけですから」

「はい……そうですよね……」


 ただ、客観的な事実を述べられているだけだというのに。両手足を縛られて吊るし上げられ、平手打ちを食らわされているようだ。


「私、初めからうぬぼれてたんです。セアン殿下も私のことを好いてくださっている、って……。でも、それは勘違いでした。殿下は誰にでも優しいから……。もう、諦めます。やめます。そうすれば、ユリア殿下にもご迷惑にならないですよね?」


 堰を切ったようにあふれ出す言葉に相槌すら打たず、彼女は背を向けた。私のすべてを拒むかのように。

 これ以上この場に立ち続けるのは耐え切れず、私は逃げるように一礼するとその場から立ち去った。


(どうしよう……もう、何もわからないわ)


 残り時間が刻々と迫る。不穏な思いが影を落とした。



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