◇北の隣国 その2

 だが、ルレオと口にした瞬間、眼鏡の奥の栗色の瞳が少し曇ったような気がした。


「ルレオ、ですか。ユリア王女殿下がいらっしゃるという、あの」

「え、ええ……」


 彼の変化に戸惑いながらも、私は恐る恐る続けた。


「な、なにかあったんですか?」


 私の狼狽に気付いたのか、ラウニは先ほどの曇りなど嘘だったかのように、また元の柔和な面持ちに戻った。


「あ、いいえ。何もないですよ。ですが、少し思うところはあるかもしれませんね」

「……思うところ、とは?」


 ラウニは卓上の冊子を広げると、見開きの地図の上に指を滑らせた。北に突き出すようにして三方を海に囲まれた半島、ロステレドよりもさらに北。同じく半島だが、こちらは対照的に南に突き出していて、北以外の三方を海に囲まれている。


「少しおかしいと思っているのですよね。これは小耳にはさんだお話ではありますが……ルレオとの海峡は北側が冷たい海流の通路となっているので、この季節は結氷します。それが、今年は例年よりその程度が甚だしいと聞きます。まあ、南側は北側に向けた暖流が流入するので、こちらから向かう分には、そろそろ頃合いかとは思いますが」

「???」


 何の話をしているのかわからずに戸惑っている私を見かねたのか、彼は親切にも端的に説明してくれた。


「ああ、つまり。海で渡ってくることが難しい時期に、招待状の返事が届いているようなんですよ。」

「それは、陸路とかでは?」


 言いかけて、当然のことに気付く。ロステレドとルレオの間は海で隔たっているのだ。二つの国が陸で繋がっている部分はない。大陸を大回りするなんて大掛かりなことを、果たしてするだろうか。


「それだけではないんですよ。例年、ルレオの出席者は王子のみでした。かの国の王室について私も詳しくはないのですが、王女のことを思い出そうとすると、何と言いますか……こう、頭の中にもやがかかったように、うまく思い出せないのですよ。前情報が何もないせいもあるのですが」


 ますます謎が深まるばかりだ。情勢に精通していると見受けられるラウニにもわからないのなら、私にはなおさらお手上げだ。


「つまり王女殿下は、突然現れたように思える、ということですか?」

「どうでしょう。ひょっとすると、僕たちは魔法でもかけられたんですかね?」


 ――魔法。

 その言葉を聞いた瞬間、不意打ちを食らったようにびくりと身がすくんだ。ラウニは、穏やかな面持ちを崩さない。ただ、私の出方を伺っているかのように、小首をかしげる。背の高い彼に見下ろされ、その先を訊いてみたい好奇心と、自制心とのせめぎあいに揺れた。


「魔法、ですか……」

「ええ」


 あえてその先は続けてくれない。試されている、ような気がした。どちらが先に出るのか、チェス盤でも挟んで対峙しているような感覚に襲われる。


 魔法、と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、もちろんあの剽軽で謎の多い海の魔法使いのことだ。私はどうしてこんなにも彼のことを気にしてしまうのだろうか。ぐちゃぐちゃになった心の荒波をさらに引っ掻き回していく、はた迷惑な存在だと言うのに。我ながら馬鹿馬鹿しいと思いつつも、喉の奥からはもっとよく知りたいという渇望が顔を出してしまう。


「魔法なんてものが、この国では信じられているのですか?」


 私がごくりと唾を呑むと、エサに食らいつく魚を見て喜ぶかのように、彼は薄い唇を持ち上げた。


「それは、人によりますよ。信じるのも信じないのも、その人次第です。」


 どうにも焦らしてくる。栗色の切れ長な瞳は、一向に表情を出そうとしない。


「いえ、そういうことではなくて! 一般的にはどう考えられているのか、知りたかっただけで……」

「一般論……なるほど。そうですね。戯曲の題材ではよく出てくるものですが。ふふっ、ローネさんが可愛らしくてついつい困らせてしまいました。申し訳ありません。」

「……はあ」


 長身の青年は緊張を解いたかのように肩をすくめると、背後にあった書棚へと向かった。迷う様子もなく分厚い本を選んで手に取ると、次々と机の上に並べる。


「これは?」

「魔法関係の書物です。と言っても、東方の書物が多いので、僕もすぐには理解できませんが……」


 私もおもむろに一番上に合った本を手に取ると、ぱらぱらとめくってみた。細かい文字と時々絵が載っている図鑑のようなものだ。丸や三角を組み合わせた様なよくわからない図形から、何かのレシピのようなメモまで、びっしりと埋め尽くされている。指にこすりつくようなインクの匂いに、なんだか不思議な感覚になった。


「こんなにたくさんあるのですね……」

「まあ、大体は眉唾物なんですがねえ」


 そこで、私は以前から気になっていたことを口にしてみた。


「あの。ロステレドに、魔法使いという存在はいるんでしょうか?」


 言葉にした後、我ながらかなりおかしな質問をしていると思い当たり、恥ずかしくなる。私はユリウスのことを知っているのだから、なおさらだ。


「魔法使い、ですか。そうですね……火や水を自在に操って攻撃するとか、嵐を呼ぶとか、普通の人間には作れないような薬を作るとか、いろいろな噂は聞きますが……。結局のところ、本当にいるかどうかなんて、僕にもよくわかりません。まあ、創作をする身としては居てほしいな、とは思いますけどね」


 まったく、研究熱心なことだ。実際のユリウスを目にしたら、一体どう思うんだろうか。


「見た目ではわかりませんがえらく長寿だとか、まあそれはもういろいろな噂がありますよ。ただ、普通の人間と同じように暮らしているとは思えませんね。人里離れた森の奥、はたまた海の底に身を隠して、ひっそりと息をひそめるように暮らしている。そんなイメージがあります。なにせ、数百年前までは迫害の対象だったんですから」

「迫害……?」

「ええ。魔女狩り、とでも言いましょうか。疑わしい者は片っ端から火あぶりにされ、拷問にかけられ、それはまあ悲惨なものでした。真偽のほどははっきりしませんが、まあ身近に普通と違う人間がいたら、排除しようと思うのが自然な心理でしょうね」


 普通と、違う。

 魔法使いと人間は違う。同じように、私も今は人間のように見せかけているが本当は人間ではなく、人魚だ。今更のように思い返すと、なぜかぞくりと背中が粟立った。こうして話していると忘れてしまいそうになるが、人魚であることがばれてしまったら、ゲームのようにラウニには檻に閉じ込められてしまうのだろうか。


「……どうかされましたか? 顔色が悪いようですが」

「い、いえ。なんでもないです!」


 私はぶんぶんと首を振ると、これ以上ぼろが出る前に早くその場を後にしようと急いで後ずさった。


「あの、すみません。急用を思い出しましたので、今日はこの辺で失礼しますね」

「……? え、ええ。お気をつけて」

「はい。ありがとうございました」


 自身が人魚であることを意識すると、途端にまともに目を合わせることができなくなる。今更恐怖を感じてしまうなんて、どうしてしまったのだろうか。一歩一歩近づいてくるタイムリミットと向き合いたくないように、今の私は自分の前の立ちふさがるすべてのものから目を背け、逃げ出してしまいたかった。


 頭を下げると、ラウニの方を振り返ることもなく足早に図書室を出る。とりあえず収穫はあったからよかった、と自分に言い聞かせてみるが、胸の奥に焦燥とわだかまりが詰まってどうにかなりそうだった。

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