◇北の隣国 その1


 残る日数は、あと三日となった。エリーネに短刀を貰ったものの、いざ目にすると自らの死をはっきりと予告されているかのようで、いたたまれなくなる。それで、私は早々に引き出しの奥深くにしまい込んだが、そんなことで心の焦りが消えるわけでも、この状況が好転するわけでもなかった。


 このまま嘆いてばかりもいられない。何か、今やれることをしなくては。……一人であれこれと過去の記憶を掘り返し、悩んでみたところでどうしようもないところではあるが。


「誰かに相談する……?」


 口にしてみたところで、誰にできるだろうかとあわてて首を振る。ユリウスはあの通り何を考えているのかもわからないし、右から左へと流されるに決まっている。エリーネは海にいるから会えるわけもない。そして、ここにいる人間たちには、そもそも人魚とバレるわけにはいかないのだ。どうにもこうにも八方ふさがりで、思わずため息がこぼれる。今の私にとって懸念であり壁でもある、それは。


「隣国の王女、か……」


 彼女さえいなければセアンと結ばれたかもしれないのに、と胸がじりじりと焦げ付くような痛みを覚える。あのゲームではモブキャラ扱いで、顔はおろか詳しいことは何も明かされなかった。ただ、セアンの好感度が足りていないと舞踏会に現れ、彼と踊っていずれ婚約する、というキャラ。主人公はそれを見ながら泡になる、というのが王道のバッドエンドだった。


 ふと、私はあまりにも彼女のことを知らなさすぎる、と思い当たる。セアンとのルートは進んでいたはずだったのに、どうして出現してきたのか。彼女の人となりも、その国のことも、何一つ知らないままここまで来てしまっていた。……否、未知のものを知るのが怖かっただけかもしれない。


「もしかして、この世界をもっとよく知る必要があるのかしら……?」


 セアンと王女の婚約を三日以内に阻止するための策というものがあるとしたら、なんとも心許ないに違いない。そう、何もしないよりはマシという程度かもしれない。それでも、行動しなければ時間を無駄にしていくようで、私は焦燥に駆られていた。


 今はまだ、幸いにも一人で自由に動くことができる。私はあちこち城の中を歩いて回った記憶をたどりながら、図書室と思しき場所へ足を向けた。もはや、兵士たちには何も言われない。セアンが手を回してくれたのか、はたまたカイが泳がせようとしているのかはわからないが、見張りの兵士が両脇に待ち構えている重厚な扉の前に進んだ。


「あの、入ってもよろしいですか?」


 兵士は怪訝そうな顔をしてちらりと私に目を向けたが、意外にもそのまま頷いてみせた。


「ええ。殿下からは自由に見て回るように言われておりますので、結構です。ただ、奥の書庫へは立ち入らないでくださいね」

「わ、わかりました……」


 あっさりとした承諾にいささか拍子抜けしたが、気を取り直して扉を開き、図書室の中へと足を踏み入れた。


 少し湿っぽいような、独特の紙の香りが漂う。中は広々としており、所狭しと並んだ書棚には、内容の見当もつかないような背表紙がずらりと並んでいる。この中から、果たしてルレオに関して書かれた本は探し出せるのだろうか。


 とりあえず、手近にあった本を引っ張り出して手に取ってみた。表紙は暗い緑色で、金の縁取りで枠が彩られ、重々しい書体でタイトルと思われる文字が並んでいる。文字自体は規則的で、どこかで見たことのあるような形をしているが――当然、人魚で、前世が西洋人でもなかった私には読めるはずもなく、がっかりと肩を落とした。


「何かお探しですか?」


 その時、タイミングよく背後から声をかけられて、驚いてばっと声のする方を振り返った。格別悪いことをしていたわけでもないのに、心臓がびくりと縮み上がる。


「あっ……ラウニ様?」


 いつのまにか近くにいたのは、栗色の切れ長な目を細めた背の高い青年だった。彼が小首をかしげると、さらりとした亜麻色の長髪が肩のあたりを流れる。つい先日、私の何かを理解したかのように振舞い、ロステレド王室について戯曲を歌ってくれた、宮廷楽士。


「ああ、驚かせてしまってごめんなさい。ローネさんを久しぶりにお見かけしたものですから、つい嬉しくなってしまって。」

「そ、そうでしたか……」


 私は軽く頭を下げると、どうしたものかと思案した。字が読めないのに図書室に来たなんて、良い笑いものだ。仮に絵などが付いていてなんとなくわかったとしても、目当ての本を探し出すのには骨が折れそうでもある。パッと見渡した限り、どうやら規則的に分類されているのには違いないが、私がこの世界に疎いことに変わりはない。眼鏡の青年も私のせわしない様子に気づいたのか否か、親切にも案内を申し出てくれた。


「ちょうど戯曲関係の書籍を読み漁っていたところです。よろしければ、本を探すお手伝いいたしますよ」

「あ、ありがとうございます……」


 ほっと一息をつく。完全に心を許したわけではないが、頼もしい助っ人に胸をなでおろした。

 それでも、胸の内をすべてを明かすべきかは迷ってしまい、言いよどむ。


「実は、少し知りたいことがありまして……」

「知りたいこと……?」

「えっと……そ、そう! この世界について知りたいのです」


 言ってしまった後で、ざっくりしすぎていたかと反省する。この世界、とはなんだ、この世界とは。純粋に、ルレオについて知りたいのだが……如何せん、どうやって切り出せばいいのか。動機を訊かれたら何と答えればいいのかもわからない。


「この世界……それは大きく出ましたねえ。ローネさんは、どこまでご存じなんですか?」

「ええと、ロステレドの位置と、ロゼラム、アレスとの関係なら大体、殿下方にご説明頂きました。なんでも、西の島国ロゼラムと南の大国アレスが一触即発状態で、中立のロステレドが難しい立場にいるとか」


 ラウニはうんうんと優し気な面持ちで頷いた後、おもむろに書棚から大きめの冊子を引っ張り出してきた。


「……これは?」

「周辺国家との世界地図です。それだけご存じならレディーには十分かと思いますが……もしかして、他に知りたいことでも?」


 核心を突かれてしまい、うっと言葉に詰まる。これだけでは、私が人魚とバレるわけでもないし……と言い訳しつつ、うまく手繰り寄せるように言葉を選びながら口を開いた。


「実はセアン殿下に、周辺国に渡って行方不明者リストに当たらないかと言う打診を頂いたんです。まだ検討中なんですが、それぞれの国についてあまりにも知らなさすぎると思いまして。特に、そう……ルレオについて」


 ――ルレオ。あの北国について、彼はどのぐらい知っているのだろうか。

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