◇短刀
私が何か言おうとした時、彼の姿はもうそこにはなかった。そればかりか、まばゆいばかりのシャンデリアも、舞踏会が繰り広げられていたはずの、きらびやかなホールもない。一気に目の前が真っ暗になり、冷たい海風が吹き付ける。そのあまりの落差に、先刻までの出来事が幻だったようで、足元がおぼつかなくなる。
気づけば、私はネグリジェのままで夜の浜辺に立っていた。まだ夢見心地のまま歩こうとすると、足の裏が砂浜に吸い込まれ、二、三歩進んだだけでよろけてしまう。
はっと我に返って姉の姿を探すと、まるで用意されていたかのように、すぐ近くの海の中に人魚の姿が見えていた。
「……まったく、いつも唐突なんだから」
私が一人ため息をつく暇もなく、エリーネは私の姿を認めるとすぐに近づいてきた。
「ああ、よかった! もう、ローネったら、探したんだから!」
そして拗ねたようにむくれる。大人びた顔立ちをした彼女には、何とも似つかわしくない。
「姉さま! こんなところまで来るなんて、危険じゃないの。姉さまがこんなことするなんて……珍しいわね。いつもは絶対に海辺には近づかないのに」
それほどの非常事態が起こった、と言うことだろうか。いくら見知った顔とは言えど、暗い夜の海に人がいるのは少し怖い。加えて底知れぬ嫌な予感に、背中を嫌な汗が流れる。
「それで……どうしたの?」
尋ねてみてから、ふと思い当たる。これは、もしかしなくても……あのイベントかもしれない。もう一度、エリーネの姿をまじまじと見つめてみる。私よりも茶色がかった艶やかな髪。その長さが……腰まであったのが、肩の上までに切りそろえられている。そして、その手には大事そうに握られた細長い代物。これは、紛れもない。人魚姫におなじみの――短刀だ。
彼女はきっと唇を結ぶと、決意を固めたようにその短刀を差し出した。
「これを渡しに来たのよ。」
「……え?」
見覚えのある短刀をいざ間近に見た瞬間、私の心臓はあやうく止まりそうになった。鞘に納まったそれはアンティーク調で、余計な装飾の入らないシンプルな作りだ。持ち手にはヘビをモチーフにした彫刻と、中央には貝殻が装飾されている。その短刀を見るだけで、振りかざした時の重みや、肉を貫いた時の手の感触がまざまざとよみがえってくるようで、額に脂汗が浮かんだ。
「どうしたの? ……これ」
「どうしたもこうしたもないわ! 聞けばあなた、誰とも結ばれないと泡になってしまうって言うじゃない。もう、聞いてないわよ!!」
真剣に、どこからばれてしまったのだろうと逡巡してみるが、思い当たる節は一つもなかった。
「だ……誰に聞いたの?」
「あなたを人間に変えてくれたっていうあの魔法使いよ。」
「ね、姉さま……じゃあ、その髪は」
察するに、ユリウスのところに行ったら、短刀の代償として髪を要求された、といったところだろうか。先ほどの彼は、そんなことは何も口にしていなかったが。
「本当、嫌になっちゃうわよね。ここまで伸ばすのに何年かかったと思うのよ! 髪は女の命って言うのに! ……ああ、いえ。可愛い妹のためなんだから仕方ないわよね。髪なんてまた伸びるから、気にしないで」
「……ね、姉さま。ごめんね」
その割に、エリーネはしきりに落ち着かない様子で、短くなった髪を何度も手櫛で整えている。妹だからわかる。彼女が海藻で作った美容液を垂らして、誰よりも大事に髪を手入れしていたことを。初めて背中にまで届くようになったとき、それはそれは喜んでいたことも。日に焼けると痛むからと、晴れの日は水面に近づかないように気を付けていたことだって。それだけに、私のためにそこまでしてくれた申し訳なさに、心臓が掴まれたようにぎゅっと痛くなる。
「しかもあいつ、『お姉さんが姫さんと似てるところは髪くらいかと思ってたんですけど、全然違いますね』って。もう、思い出すだけでムカついてきたわ!」
「あー。ユリウス、そんなこと言ってたのね」
彼の歯に衣着せぬ物言いは、容易に想像がついた。私を何とか助けたいと思ってくれたエリーネが、やむを得ず海の魔法使いの元へ赴いたことを考えると、ひたすら頭が上がらない。
「あいつに頼るのもしゃくだけど、こればかりはそうも言ってられないわよね」
「……姉さま?」
「いい? あの魔法使いが言うには、この短刀であなたが好きな男を刺せば、無事に人魚に戻れるって言うじゃない。人間を殺すのにためらっちゃだめよ。魚をひねるのと一緒なんだから」
私にとってはそんな風に割り切ることはできない。エリーネの考え方は、おそらく人魚のスタンダードなのだろうか。……私は魚に恋した覚えはないのだが。
「あ、ありがとう。大事に使わせてもらうわ」
本当はその場から逃げ出したいくらい、膝ががくがくと震えていた。この短刀をもらうイベントは、グッドエンドの時もあっただろうか、と思い返してみるが、いくら考えてもバッドエンドの時しか出てこなかったように思えてくる。どうやら、もう是が非でも現実と向き合うことを余儀なくされているようだ。とりあえずこの場を穏便に済ませるためにも、私は引きつった笑みを浮かべて短刀を受け取ることにした。
姉の手から渡された短刀。私の手のひらの上へと重量が加わった瞬間に、鉛でも入っているかのようにずしりと重たく指先に張り付いた。この剣で、私は……彼を、殺せるのだろうか。
「あ……あはは。おかしいわね。さっきあの魔法使いにも会ったのに、この短刀のことなんて一言も言っていなかったわよ?」
とにかく話題を逸らしたくて、思いつくがままに呟くと、思いもよらない角度から突っ込まれてしまった。
「あなた、そんなにあいつと仲がいいの?」
うっ、と言葉に詰まる。仲良くなった覚えはない。どちらかと言うと、まだ距離感がつかめないでいるし、たぶん奴は誰にでも馴れ馴れしい。
「まっ……まさか。あいつの気まぐれには散々振り回されているのよ。」
「ふーん」
エリーネは気のなさそうな返事をすると、肩までになった髪を撫でつけながら肩をすくめてみせた。
「ローネって、昔からそういうところがあるわよね。魔法使いに関わるもんじゃない、ってさんざん言い聞かせてきたのに……。奴らは、人魚の鱗やら涙やらをやたら欲しがる時点で、人間と何ら変わりないのよ?」
「わかってるわよ……。でも、悪い奴ではないと思うから……」
自分で言い訳しておいて、気付く。どうしてそんなことを思ったのだろうか。彼は初めから、私を監禁するなどとほざいて、怪しさ満点だったというのに。
「いいとか悪いとかじゃなくて。種族が違うんだから、のっけから信用するな、ということよ。あなたは昔から興味津々だったけど……まさか魔女の手下に涙をあげるなんて、あの時はたまげたわ」
先日思い出した人魚の記憶のことだろう。あれは、子供のやったことで……まあ、若気の至りと言うやつだ。
「だって、かわいそうだったんだもの。私も子供だったんだから、別にいいじゃない」
それでもあまり根に持たれているのが嫌で反論すると、エリーネは驚くべきことを口にした。
「あ、の、ね! 人魚の涙はね、人間や魔女は長寿やら薬やら何やら勝手なことを抜かしているけど、人魚にとっては愛する相手にしか触れさせてはならないものなのよ」
「――は?」
それは、初耳だ。
「涙を見せるのは、その人を愛している印であり証なの。私の命をあなたに捧げます、という意思表示でもあるわ。グレーネでは昔からそう言い伝えられてきたんだけど……あなた、その顔はまさか知らなかったのね?」
「え、ええ……」
と言うことは、私の命は皮肉なことにも魔女のものになったも同然、ということか……。
「常識過ぎて失念してたわ……。だから、よくわからない奴に涙をあげるような馬鹿な真似ができたのね」
「姉さま……もう、いろいろと忘れてちょうだい……」
「でも、今回は訳が違うわ。あなたの命が懸かっているの。だから、私も魔法使いに頼らざるを得なかった。必ず、戻っていらっしゃい。生きて帰ってくるのよ」
「うん……」
もう本当に、エリーネと会えるのは最後かもしれないと思う。
彼女は私が短刀を手にしているのを見ると、満足そうに頷いてまた海中へと潜っていってしまった。暗い海の中へ、溶けるように消えていく。
私がそのまま呆然と虚空を見つめたまま突っ立っていると、いつのまにか自分の部屋の中に戻っていた。
「ねえ、なんでこのことを……」
短刀のことを尋ねてみようと辺りを見回したが、ユリウスの姿はもうどこにもいなかった。ため息が出る。とりあえず現実を直視したくなくて、私は部屋の引き出しにそっと短刀をしまった。
「これで、バッドエンドまっしぐらなのかしら……」
自嘲しながら呟いてみる。泡になるというのはどんな感覚なのだろう。考えれば考えるほど恐ろしくなるのに、痛くないのならそれも悪くないか、と思ってしまい、慌てて首を振った。まだ、最後まで何が起こるかわからないのだ。今更あきらめてどうするのだろう。
そう思うのに……もうずっと、先が見えない。
いくら弱音を吐いてみたところで、聞く相手もいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます