◇魔法使いとダンスを その2

 だがいつのまにやら、目前のユリウスは形のいい唇を持ち上げて、元のにやついた表情に戻っていた。また気のせいだったのだろうと思い直し、心のざわつきを抑え込む。


「それはそうと、姫さん。近くの浜辺で、なんかあんたに似た人魚がいたんだけど」

「――え?」


 私に似た人魚なんて、一人しか思い浮かばない。あわてて窓に駆け寄って外を見渡してみたが、ここからは木に遮られて浜辺の方までは見えなかった。寄せては返す波の音が微かに、ざぱーん、ざぱーんと規則的に聞こえているだけだ。


「見えない、けど……」


 何を適当なことを言っているのか、と魔法使いを睨み返すと、彼は肩をすくめた。そのまま手のひらを上に向けて、あの水晶のような水泡を浮かべる。ゆらゆらと揺らめく泡の中には、暗い夜の海。その中から顔を出しているのは……紛れもない、姉のエリーネだ。城の裏手の方の浜辺だろうか。何か落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回しているが……おそらく私を探しているようだ。


「ローネ! ローネ!!」


 肝が冷える。いくら夜で、あの辺は人通りがないとはいえ、他の人間に見つかってしまったらまずい。かと言って、城はとっくに施錠されているので、私には外に出ていく術がない。


「姉さま?!」


 あわてて水泡に顔を近づけ、食い入るように姉を見つめた。どうしよう、早く彼女のもとに行かなければ危ないのに……。私は、はやる気持ちを抑えてユリウスに尋ねてみる。


「ねえ、これってこっちからの声は聞こえないの?!」

「そんな機能はないよ」


 魔法使いのくせに、使えない。私が思わず彼のローブの袖を乱暴に引っ張ると、彼はそんなことなど気にも留めないように、のんびりとした口調で続けた。


「姫さんを向こうに飛ばすことはできるよ」

「本当?! なら……」

「――代償。」


 この期に及んで、まだ私から何かを分捕るつもりだろうか。相変わらず、がめつい魔法使いだ。


「私にはもう何にも残っていない、って言ったじゃない! どうせ泡になるなら、せめて姉さんを守ってよ!!」


 もう泡になるのが決まっているのなら、いっそ声だってなくなってもいい。私がそう思い切ろうとした時だった。


「――じゃあさ、姫さん。俺と踊ってよ」

「……は?」


 思わず、へなへなと気の抜けたような声が出る。


「そんなことでいいの?」

「うん」


 わけがわからないまま呆然と立っていると、ユリウスはまるで今から手品でも見せるかのように、ぱちんと指を鳴らして立ち上がった。その姿が悪戯を思いついた子供のようで、戸惑いを隠せない。やおらに彼には似合わない恭しい一礼をする。なぜかしこまるのかわからないまま、私は首をかしげた。


「……何してるの?」

「さあ、あんたも」


 よくわからないが、この際だ。早くこの茶番に付き合って、とっとと姉のもとに連れて行ってもらおうと、仕方なくネグリジェの裾を持ち上げて膝をかがめた。


 そのまま、彼はおもむろに私の手を取った。音楽もない。聞こえるのは微かな潮の音と、そよそよとそよぐ冷たい夜風。その風に当たると、私のネグリジェは唐突に、夏の海のように鮮やかな青のドレスに変わっていた。続けて、彼のローブもぱっと漆黒の燕尾服に姿を変える。まるで、あの舞踏会の空間に舞い戻って来たかのようだ。自室にいたはずが、いつのまにか燦然と輝くシャンデリアの下がった、あのホールにいる。どこからか、あの時と同じ曲が流れ始めていた。


「す……すごい……」


 ただただ、圧倒される。人魚に変えられた魔法は、自分に直接かけられたというのに、あまり感動する余裕もなかった。彼の魔法は、不可能を可能にしてしまう。自分の意のままに、自由気ままに振舞えることが心底羨ましかった。私も魔法が使えたら苦労しないのに、と理不尽にもユリウスが憎らしくなる。


 彼はそのまま私の手を取って、自らの肩の上に乗せた。身長差がそこまであるわけではないので、すぐ間近で目が合う。彼の目は不思議だ。おどけているかと思ったら、すぐにすっと真剣な眼差しになる。溶けてしまいそうな、闇色。その瞳を見ると、頭の中では早く姉の元に行かなくてはと焦っているのに、なぜか他事を考えることは許されないような気がした。


 ユリウスは意外にもダンスが上手だった。型にはまりすぎず、かと言って全くの自己流と言うわけでもなさそうだ。優雅なように見えて、時にはわざと違うステップを踏みこんで、私がうろたえると、悪戯が成功したように顔をほころばせる。それが彼らしくて、いつのまにかおかしくなってしまい、私も自然と口元が緩んでいた。


 ダンスと言うのは不思議だ。一人ひとり、異なった色を見せてくれる。それでも、なぜか踊ったことはないのに彼の動きは目に覚えがあるような気がした。


「姫さん。舞踏会は楽しかった?」


 変な会話だ。今舞踏会のようなシチュエーションで踊っているというのに、まるで終わったことのように会話している、なんて。


「……いろいろありすぎて、頭の整理が追い付かないわ。」


 私は彼のリードに任せてくるりとターンしながら、自嘲するように笑って見せた。


「王子とは踊れたんだよね?」

「踊ったわよ。でも、すぐに隣国の王女が来て……。もうすぐ二人は婚約するって……」

 そして、私は泡まっしぐらだ。これからの絶望的な展開を思うと、それ以上は何も言えなくなり口をつぐんだ。

 私の顔色が悪くなったのに気付いたのか、ふいにユリウスは動きを止めた。


「……あんたは、それで幸せなの?」


 ワルツを奏でていたオーケストラがどこか遠くで鳴っているように、だんだんと耳から遠ざかっていく。


 幸せかというのは、セアンから身を引いたことについて言っているのだろう。海に引き込まれた時――あの時とまったく同じことを聞かれるとは滑稽だ。あの時、直後にユリウスが何か言いたげに私の手を取り、近づいたことは思考の片隅に追いやりつつ、再び口を開く。


「……幸せも何も、彼が決めたことならもうどうしようもないじゃない。身分が違えば、仕方ないのよ」

「姫さんだって、人魚の国のお姫様じゃない。なんで、言わなかったの?」


 それもそうだが、今ロステレドを取り巻く状況を変えるかと言われたら、心許ない。第一、そんなおとぎ話のような事実を果たして信じられるだろうか。答えは、ノーだ。


「……そんなの、信じてもらえるわけないじゃないの」


 当たり前だ。人間からしてみたら、人魚の存在なんておとぎ話そのものだ。それはこの世界でも変わらない。


「姫さんは、王子を信用しきれなかったんだね」

「違っ! そういうわけじゃ……。でも、まあ、そういうことになるかもしれないわね……」


 それでも、私はこの世界で人魚として生きていた。それは紛れもない事実だ。伝えられなかったのは、心のどこかで受け入れてもらえるわけがない、とあきらめていたからに違いなかった。

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