◇王子にさよなら その2

 もうすでに、バッドエンドへと向かっているのだとしても。セアンが私に見せてくれた表情、あたたかな声、優しい目。それらは消えない。私だけのものだ。

 せめて、私は自分に言える精いっぱいの気持ちを伝えようと思う。


 気付けば、手を置いた膝がかすかに震えていた。足に力が入らない。それでも、ソファーから思い切って立ち上がると、私は彼のいる窓辺に近づいた。突然の振る舞いに、セアンが驚いたように振り返る。


「私は、セアン殿下に拾っていただけて幸せでした。」


 そう言うと、彼は驚いたようにまじまじと私を見つめた。優しげな目元。すっと通った高い鼻。空色の中に、ぐしゃぐしゃな顔をした私が映っている。おかしい、ちゃんと笑っているつもりなのに。泣きはらしたような腫れぼったい目をして、私はひどい顔をしている。


「あなたに目をかけてもらえて、優しくしていただけて、私はここに来てよかったと、心からそう思っています。だから、殿下には幸せになっていただきたいと思っております。」


 それでも、私は否定してほしかった。

 自分は誰とも婚約するつもりはないと。セアンにはそう言ってほしかった。


「……ありがとう」


 彼も立ち上がると、ゆっくりと私の傍へ歩み寄った。距離が縮まる分だけ、彼の本音に近づけたような気分になるのに、もうこれ以上近づくことは無いのだ、と心のどこかで予感する。


「どう言い訳をしても、無駄なんだろうが……第一王子と言う立場がなければ、私はためらうことなく君を選んだ」


 彼の言葉は、優しい。故にとてもあいまいだ。まるで、ふわふわと空を漂って消えていく雲のように儚い。私を選んだというのは仮定の話で、違う世界線上の話で、たとえ口にしたとしても意味をなさない。それに気づいたのか、セアンの声はささやくように小さくかすれた。


「……今更何を言っても、君を傷つけるだけだな。私にはその資格がないのに……」


 彼の目を見て確信する。セアンには、自分の責務を投げ出すようなことはきっとできない。まっとうに国を愛し、国民を愛し、誰からも崇められる素晴らしい国王になる。そんな立場にある彼が、感情に任せた愛の告白などするはずはなかった。そうわかってはいても、今は理性と感情の狭間で揺れ動いているように見受けられた。


 そのままため息をつくと、金髪の王子はどこか苦しそうに唇の端を歪めた。


「それでも、君の顔を見ると、決めたことが揺らいでしまいそうになるな……」

「だから、遠くへ行けということですか……?」


 ふわりとそよぐ風が部屋の中に舞い込む。薄いカーテンがひらりとはためくと、彼との距離が隔てられた。向こう側も見えそうなくらい透き通ったレースが、まるで壁にでもなったかのように私の目の前に立ちはだかっている。


「……そう、かもしれない。かといってレオナルド殿下においそれと譲ることもしたくない、とは自分でも勝手だと思う。君にも選ぶ権利があるはずなのにな……」


 彼のしなやかな手は、今にも触れ合わんばかりの距離にある。それなのに、もうとうに手の届かないところにあるように思われた。


「これで、最後にする……君を想うのは。君のために、身分すら捨てられない私を軽蔑しただろう?」


 私は人魚の国の姫だ。だがそんなものは人間の彼にとっては無意味で、この国を取り巻く状況を変えられるわけでもない。


 二番手でもいい、と言ってみたところでどうなるだろう。目を閉じて、彼の側室になった自分を想像してみる。公の場に出てくる彼の隣にいるのは、いつも王女。自分は日陰者で、一生それを背負って生きていかねばならない。愛する人と共に生きることが、必ずしも幸せとは限らない。彼もまた王という運命の中にいるのなら、なおさらだ。カイの母親が身分の相違に苦しみ、命を断った気持ちがわかるような気がして、私は何も言えなくなった。


「そんな……」


 それでも――はっきりとした言葉ではなくても、彼の好意が確認できたのは、純粋に嬉しかった。今はそれだけで胸がいっぱいで、もう自分自身のことなどどうでもよくなってくる。


 今の私は、彼の選択を尊重したい。おかしい、とは自分でも思う。自分が生き残るためには、人が死ぬ以外は手段を選ばなくてもいい、と考えていたはずだったのに。彼が隣国の王女を選ぶことは、自らの死を意味するも同然だ。それなのに、なぜ私はこのように凪いだ気持ちでいるのだろうか。我ながら心底不思議だった。


「王女殿下と婚約するのは、国益のためだ。そこで私は父上のように君も選ぶ傲慢さは持てなかった。君を幸せにできる自信がなかった。君にはもっと、この国や隣国で私よりもずっと素晴らしい男性が現れてくれるだろう」

「私は……」


 セアンよりふさわしい人など、どこにいるだろうか。後にも先にも、きっと私には彼しかいないのだ。彼がそれで身を引いているつもりなら、ずるい。勘違いも甚だいいところだというのに。怒りたいのに、怒ることもできなくなる。

 午後の陽気に照らされて、セアンのさらさらとした金髪が透き通るようだ。


 国のため。その気持ちは痛いほどよくわかる。彼もまた、自らの運命と重すぎる責任に苦しんできたのだから、それを責める資格などなかった。仮に駆け落ちのような形で身分を捨てたところで、彼は自責の念に駆られ続けるだろう。それは、だめだ。セアンがロステレドも国民も大切に思い、真摯に向き合っている気持ちを否定することになってしまう。


「セアン殿下がいろいろなものを背負っていらっしゃって、それを私一人のために捨てられないことも、ちゃんとわかっていますから。私は、大丈夫です。どうか、王女殿下と幸せになってください。私のことなど早く忘れてください。私は……それでも……」


 あなたのことが、大好きでした。

 舞踏会でも、今、この場でも唇に乗せて伝えることはできない。

 だから、せめて心の中で私は呟いた。


「ローネ……」


 もう触れることはないだろう、と思っていた手が私の腕を引く。ほんの一瞬のことだった。瞬く間に視界が暗くなる。気付けば、私は彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。


「――っ?!」


 セアンには珍しく強引だ。鼓動が近い。すぐそばでどくどくと脈打つ音が聞こえる。一瞬のようで、永遠とも思える時間が流れる。私は夢を見ているのではないかと目を疑いつつも、その意外にも広い背中におずおずと手を伸ばした。


 心臓がいくつあっても足りないほどの緊張に見舞われながらも、なぜかある光景が脳裏に蘇る。曇る視界の中、嗚咽しながら短刀を突き立てた先で、別の生き物のように動く鼓動。その途端、胸の奥で何かがつかえたように息ができなくなった。


 果たして、この胸に私は刃を突き立てられるのだろうか。甘く心地よく、ときめきが止まらないはずなのに、なぜか居心地の悪さに身じろぎする。

 そんな私に気付いたのか否か、セアンはすぐにはっと我に返ると、あわてて手を離した。


「すまない……」

「いいえ」


 私はまっすぐに彼を見上げた。澄んだ空のような空色。海と空は、相いれない。どんなに近づいても、混ざり合うことなど決してないのだ。

 だから、私は精いっぱいの笑顔を向けた。


「――さようなら、セアン殿下」



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