◇王子にさよなら その1

 隣国の王女は、まだ城のどこかにいるらしい。北国のルレオへは、船旅で幾日かかかる。本来は昨日の朝に発つ予定だったが、北の海の天候が良くないとかで、先延ばしになっているらしかった。早く帰ってほしいのに、と思う。彼女の滞在が長引くほど、セアンと婚約するリスクが高くなるような気がしてならないのだ。


 舞踏会が終わってから、もう数日が経った。嵐の前の静けさのように、何もない。ただ驚くほど淡々と時間が過ぎていく。このままではいけないと思うのに、ルートにないことばかりが起こっていて、どうすべきか見当もつかなかった。


 これでは、他の誰を選んでも同じだったかもしれない。私のとった行動が及ぼした影響なのか、それとも現実と同じで、何が起こるかわからないものなのか。唯一先が見えると思っていたセアンを選んでもこんなことになるとは、予想外だった。


 監視が解けたのは喜ばしいことのはずなのに、どこにも行く気にはなれない。城の使用人たちは、セアンと王女はじきに婚約するのだ、とまことしやかに噂している。それを耳にするたびに、やりきれない絶望が心を覆っていくようで、気持ちが沈んでいった。


 それでも、行動しなくては何も始まらないことはわかっている。まずは、セアンに先日の非礼を詫びなければならない。だが、その後は……何と言えばいいのだろうか。


 そんな風に、真っ暗闇を手探りで進むような堂々巡りをしていた時、突然ノックの音が耳に届いた。


「……どうぞ」


 あれほど変化を求めていたというのに、今はどうだろう。そこから顔を出すのが、いつもの人のよさそうな顔をしたメイドだったら良いのに、と半ば本気で考えている。


「失礼いたします」


 思いがけず男の声が聞こえてきて、ソファーに転がっていた私ははっと身体を起こした。


「えっ?!」


 ドアを開けたのは、見覚えのあるセアンの従者の一人だった。


「セアン殿下がお呼びです。すぐにお越しください」


 言葉を失う。期待と不安が入り混じる。



                 ***



 従者に案内されるがままに、セアンの執務室に来た。私の滞在している部屋とは比べ物にならないくらい広く、書棚にはさまざまな本が並んでいる。彼がいつも仕事をしていると思われる奥の机は、一枚板のマフォガニ―だ。落ち着いた木の温もりが感じられる質感。その上はきちんと整頓されており、彼の几帳面な性格がうかがえた。


 セアンは書類を書いていたが、私が来たのを見ると、待っていたように立ち上がった。


「こんな場所で、すまない。誰にも聞かれたくなかったんだ……。ほかの者にも口止めしてあるから、安心してくれ」

「はい……」


 彼に勧められるまま、執務机の手前にある革張りのソファーに腰を下ろした。ひんやりとした生地が手のひらに吸い付くようだ。彼と顔を合わせると、何と言えばいいのかわからなくなる。


「あの、……どうしたんですか?」


 とにかく落ち着かなくて、私は早々に口を開いた。


「何のことは無い。君の出自についてだ。」

「え?」


 まるで、私たちの間には何もなかったかのように、無機質な話題が降ってくる。途端に、私は拍子抜けしてしまった。


「残念ながら、現時点で国内に君の特徴と合致する行方不明者は出てきていない。戸籍がないというのも考えられるが、君を見付けたのは海辺だ。そこで、だ。隣国が協力を申し出てくれている。ロゼラムと、ルレオだ。」


 もうこの話題しか、彼とつながることはできないというのに、彼の言葉が右から左へと流れていく。いくら探しても私は人魚だから、見つかるはずなどないというのに。なんだか彼を騙しているようで、良心がキリキリと痛む。そんな私をよそに、セアンは続ける。


「これはロゼラムのレオナルド王子殿下、並びにルレオのユリア王女殿下の厚意によるものだが……君が望むのなら、どちらかの隣国に渡って行方不明者リストから当たることができる。残念ながらロステレド王室がそのリストを借りることはできない。国家間の問題になってしまうからな。……君本人がどちらかの国に出向く、という条件付きだ」


 彼がひとえに親切で言ってくれているのはわかっている。それでも、どこか厄介払いされているような気がしてしまうのは、私の心が歪んでしまっているからだろうか。


「……少し、考えさせてください。」


 私は呟くように言った。セアンの表情は変わらない。単に一国の王子として、行方不明者を親身になって探そうとしてくれている。ただそれだけだとはわかっていても、徐々に心が失望に覆われていき、いつのまにか私の唇は震えていた。


「そうだな。今すぐにとは言わない。あと一週間くらいは期限の猶予があるから、それまでに考えてもらえたらと思っている。」


 彼の何気ない一言が、ちくちくと針のように胸を刺していく。一週間たったら、私はもう海の泡になっている。そんなことなど、彼には知る由もないというのに。


 セアンは執務机についたまま、ぱらぱらと書類に目を通して一向に顔を上げないが、よく見るとどこか持て余しているかのように、その指先は紙を規則的になぞっているだけだった。私に何と声を掛けたらよいのか、考えあぐねているようにも見える。


「……セアン殿下は、どう思われますか?」


 少し意地が悪いかもしれないが、単純に彼の考えを聞いてみたかった。それで、私への気持ちを試しているようなつもりになってみる。そんな私の思惑に気づいたのか否か、セアンはようやく顔を上げた。涼し気な空色の瞳と目が合う。どこか困ったように、金の睫毛が陰りを見せた。


 彼はしばし逡巡した後、何か言いにくいことでもあるかのように、重々しく口を開いた。


「実のところ……ロゼラムにはあまり行ってほしくはないと思っている。我が国との情勢もそうだが……レオナルド殿下は君を大層気に入っておられる。それだけならいいのだが、彼は女性関係が華やかだと聞く。今回の申し出も彼の方からだった。もし君を後宮の一員にしようという下心があるのなら、あまり感心しないな」


 純粋な、厚意なのか。それとも、私への特別な好意なのか。彼の言葉だけではどちらとも判断がつかない。


「それは……なぜですか?」


 私がおずおずと尋ねると、セアンはおもむろに立ち上がって背を向けた。その落ち着いた声色も、表情も、淡々としていてどこか事務的だ。数日前に舞踏会で手を取られた熱が、肌によみがえる。私はぎゅっと自分の手を爪が食い込むほど握り締めた。

 

 窓の外を眺める彼の後姿からは、何の感情も読み取れない。否、読み取られまいとしているようにも見えた。


「数ある女性たちの一人になって、果たして幸せだろうか? もちろん幸せは人それぞれだと思うが……ほかの女性への嫉妬や苦しみもついて回るはずだ。私は、君にそんな苦しみを味わってほしくはない」


 それを聞いて胸に浮かんだのは、側妃として生きることを拒んだ、カイの母のことだった。


 昨日のカイとのやり取りを聞いていなくても、わかる。彼はおそらく、ただ一人の女性を選ぼうと考えているのだろう。


 それ以上は踏み込めずに、私はありきたりなことしか口にできなかった。


「殿下は、一夫一妻制を推奨されるのですね」

「……そうだな。制度的にはわが国も側室も持てるが、父上が母上やカイの母上を苦しめるのを見てきた。私は自分の大切な人を、そんな目には遭わせたくないと思っている」


 では、選ぶのは二つに一つだ。隣国の王女か……私か。だが、彼の口ぶりからすると隣国に私を送り込みたいみたいで。いざ事実を目の当たりにするとなると、自分からは何も言えなくなる。


 重い沈黙が流れる。その意味を問うのが怖い。


 私は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。



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