◇とある少年の独白 その6


 少年がゆらゆらとゆらめく水泡をぼうっと眺めていると、不意に人魚姫が泳ぎ出した。こんな夜だというのに、水面へ向かって見る見るうちに上昇していき、そのまま嵐の中へとあっというまに飛び込んでいく。突然の行動に彼は唖然としていたが、がばっと身を起こすと、気が気ではない様子で水泡を食い入るように見つめた。


 彼女は、どうやら人間の船の近くにいるようだった。嵐にもまれて阿鼻叫喚する人間たちなど見たくもなかったが、彼女は興味津々のようだ。波濤が荒れ狂っていると、深い海にいるはずのこちらにまで振動が伝わってくるようで、少年は思わず固唾を呑んだ。嵐の日は魚や、ましてや人魚は水面に上がっていくようなことをしない。水底に息をひそめて嵐が去るのを待つばかりだ。彼女が何を考えているのか、皆目見当もつかなかった。


 普段なら彼も面白がって眺めるだけだったが、今はなぜだか落ち着かなかった。彼女が万が一にも波にさらわれて、岩場に叩きつけられて怪我でもしたら。あるいは、運悪く人間たちに見つかって、捕らえられでもしたら。起こりうる最悪なケースをあれこれと脳裏に思い浮かべていると、胸騒ぎのあまり落ち着かなくなってくる。


 そうこうしているうちに、人間たちの船はいよいよ転覆するばかりになっていた。人魚姫も見ているその目の前で、甲板から一人の男が海に落ちていく。一瞬のことでよく見えなかったが、身なりの整った金髪の青年のようだった。


 少年ははっと我に返った。自分のような者にも喜んで近づいて行き、手を差し伸べてきたような、お人好しの彼女のことだ。案の定、人魚は男の方へとためらうことなく泳ぎ出していた。華奢な体躯には似合わずに、あっというまに男を水面に上げると、その腕を自らの肩にかけて、よろよろと頼りなく岸に向って泳ぎ出している。


「……やっぱり……」


 その瞬間、少年の心中にはなんとも名状しがたい靄が広がった。生きる世界が違うはずの存在に、彼女は自ら飛び込んでいく。それは昔も今も変わらないのだ、と懐かしく思うと同時に、年頃の彼女が見目の良い青年を何とも思わないはずがないことに思い当たる。


「いや……俺には、関係ないことだ」


 ただの、観察対象。面白い存在。そう思ってきたのだ。彼女に特別な誰かができたとしても、それは彼にとって何の意味もなさないのだ、と言い聞かせてみる。少年は先ほどの薬を作ることも忘れて、そわそわと気もそぞろなまま、行ったり来たりを繰り返していた。そして、ついに様子を見に行こうと決意したのか、住処を飛び出した。


 薬の材料を採取に行く以外は、彼が海の外に出ることはあまりない。嵐を運ぶ雨雲は遠くの海へと移動していったようだが、まだ荒れているさざ波が次から次へと押し寄せてきていた。少年は水面から顔を出すと、ほどなくしてあの金髪の男を抱え、必死に海の中を進んでいく人魚の姿を見付けた。


「ほんと……お人好しなんだから」


 ぶつぶつと呟くように文句を言うと、彼もひそかに後を追った。

 しばらくすると、人魚姫は浜辺にたどり着いた。白い砂浜の上に助けた青年を横たえると、物珍しそうにその横顔をまじまじと見つめている。心配そうな視線の先には、人間の男がいる。彼女の切なげなまなざしを見ると、なぜだか焦燥にも似た苛立ちが募った。男は気を失っているのか、彼女には気づかない。少年がその情景を傍から見れば見るほど、わけのわからない衝動が波のように押し寄せてきていた。今までは観察しているだけで充分だったはずなのに、今はこの空間を壊してしまいたい、という衝迫に駆られている。


 彼は我を忘れて海を出ると、近くの砂浜に降り立った。もはや隠そうという気も失せていた。人魚姫が慌てて海の中へ戻っていくのも、目に入らない。ただ、あの人間のもとへと近づいていく。一歩、また一歩と踏みしめるたびに、砂浜が頼りなく沈み込んだ。今はそれすらも、彼を煩わせるばかりだった。


 そのまま、足元に倒れている、無力でか弱いはずの人間を見下ろした。輝く金の髪に、彫刻のように整った端正な顔立ち。自らの母親を殺したあの人間どもではない。男は少年とは何の関わりもない、ただの人間だ。それなのに、これほどまでにふつふつと、焦りにも似た不快な感情があとからあとから芽生えてくるのは、なぜだろう。


 この男を殺せば彼女はどうするだろうか、という物騒な思いつきが突如彼を射すくめた。いっそ試みてみようか、と彼は自らの手のひらを見つめる。邪魔だと思うものは、ためらいなく排除すればいい。その力は、今の彼には十分に備わっていた。そうでなくとも、この男はこのまま放っておけば死ぬかもしれないのだ。


「助ける義理なんて、どこにもない……よな?」


 それでも、この男をこのまま見殺しにした場合の後悔が、手に取るようにわかる。もちろん、男のためではない。彼女のためだ。あの美しい涙を流し、自分を責める姿が思い浮かんでくるのだ。そんなことは、少年の本望ではなかった。


 彼はため息をつくと、渋々といった様子で男に手をかざした。回復系の魔法は薬に頼りきっているせいか心許なかったが、男は肺に入っていた水が押し出されたのか、ほどなくして咳き込み、息を吹き返した。


 こんなことをするつもりはなかったのだが……と、少年はそそくさとその場から立ち去りながら自嘲する。自分はいったい、どうしてしまったのだろう。



             ***



 あの日から、水泡の奥の彼女の表情が変わった。まだ子供だと思っていたのに、頬を染めて、時折ドキリとさせるような大人びた表情をするようになった。それは、考えるまでもない。あの男のせいだ。彼女は、きっとあの人間に恋をしている。


 彼女がどうなろうと、自分は無関係だ。少年も初めはそう考えていた。しかし、そこではたと気付いた。人魚姫があの男の傍で笑っているのを考えると、なぜだか胸の奥がぎりぎりと締め付けられているように苦しくなるのだ。


 それは、十年前にも感じたような、あの何とも形容しがたい気持ちとも似ているようで違っていた。その感情は、あの時の「彼女を閉じ込めてしまいたい」という突拍子もない欲望よりもずっと大きくて、荒々しい獣のように自らの血を巡って暴れ回っていた。


 いっそあの時、周りから後ろ指をさされたとしても、彼女に近づいて、できることなら奪い去ってしまえばよかった。そうすることができなかったのは、少年自身の未熟さと、そこまで大胆になれなかった不甲斐なさのせいなのだ。


 彼女のことを、ただの観察対象だと思っていることに変わりはない。なのに、どうしてだろう。もっと早く行動しておけばよかった、という言い知れぬ後悔が湧き上がってくる。そうしたところで、あの人魚が少年を好いてくれる保証など微塵もないのに。


 少年は自分でもよくわからない感情と、彼女の抱いているであろう恋心とを天秤にかけてみた。彼女の力になりたいと思うのに、望みを叶えてやってたまるか、という相反する思いが、心の内側で蛇のようにうごめいていた。


 このままいけば、きっと彼女は人間になりたいと願い、人魚たちから少年の噂を聞きつけて、ここにやってくるだろう。


 彼は悶々としながら住処に戻ると、あの老婆がここを去る前に教えてもらった魔法を思い出していた。人魚を人間に変えるという、禁忌とも言える魔法。その仔細を思い出そうと、分厚い書物のページをめくりながら、一人物思いにふける。


 あの好奇心に満ちたまなざしが、いつまでも希望に満ちていてほしい、そのためにはなんだってしてやりたいと思うのに。ほかの誰かのものになるのなら、いっそ苦痛に歪んでしまったとしても、自らの傍に置いてやりたい、と知らず知らずのうちに彼は願ってしまう。

 


 少年にできることは、ただ一つ。人魚姫の来訪を待つことだけだった。

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