◇とある少年の独白 その5


 あれから、十年の歳月が流れた。少年の姿は大きくは変わらない。ただ、身長はだいぶ伸びて、少年と呼ぶにはいささか青年に近いような、どちらともつかない見目になっていた。


 彼がいつものように、あの難破船を改造した住処で研究にいそしんでいると、入り口からなじみの男人魚が顔を出した。彼はその姿を認めると、心底めんどくさそうにため息を漏らした。


「あんた、またここに来たのか。ほかの人魚どもに怒られるぞ」

「だってさ~、お前にしかできない頼みごとがあってさ~。なあなあ、幼馴染の子に惚れ薬を作ってくれよ~」


 どこか芝居がかった口調の青年人魚は、にかっと笑うと慣れた様子で中に入ってきた。少年はあきれ顔でそれを迎え入れると、軽くあしらうように、それでいて冗談か本気かもわからないような声色で告げた。


「はいはい。ただし、鱗一枚な」

「――こんの、鬼畜!!」


 彼の毒舌に臆することなく、人魚は大きな尾ひれをぱたぱたと動かしながら住処の中を移動して、きょろきょろと色とりどりの薬液を興味深そうに見回している。

 そう。あれから少年は老婆の後を引き継ぎ、細々と魔法や薬の研究をして、一部の人魚を相手に商売をしながら暮らしていたのだった。


「……はあ。だいたいな、惚れ薬とか言われてるものは作れても、効くかどうかなんて保証はできないんだぞ?」

「だって、あの海の魔女直伝なんだろ~? だいじょーぶ、大丈夫。バシッと決めるからさあ~」


 のんきにくつろぐ人魚を尻目に、少年は材料の入った瓶を次々と手に取ると、目の前の水中に並べだした。先が細くなっている透明な瓶の中には、それぞれ赤い花びらや、ピンボールくらいの小さな卵、はたまた黒いイモリといった、思わずぎょっとするようなものまで入っている。


 彼はそのまま部屋の隅の大きな窯に向かうと、自然な動作で手をかざし火をつけた。火を扱う魔法は少々不得手だが、水中で扱うことくらいは、わけもない。それから、彼はこの一見風変わりな客に、ふと気になっていたことを聞くともなしに聞いてみた。


「そういえば、グレーネでは最近変わったことはあったか?」

「ああ。なんでも、今日は陛下の末っ子のローネ姫がついに成人だってさ~。ちょっとしたお祭り騒ぎになっているのかな? ま、僕は日陰者だから、あんまり関係ないんだけどさ~。」


 思いがけず聞き覚えのある名前を聞いた瞬間、瓶の中身を振り入れようとしていた手が止まった。


「……ふーん。」


 気のない返事を装いつつも、彼の指先は緊張で強張り、微かに震えている。その指先から透明なガラス瓶が離れ、水中を舞った。少年ははっと我に返ると、それはまるで意図していた行動であったかのように、何気ない風を装って、ぱちんと指を鳴らした。途端に、ガラス瓶は勢いよく足元へと落下し、難破船の甲板に転がる。それから、彼は手持無沙汰なのをごまかすように、薬液の入ったガラス瓶をせわしなく入れ替えながら続けた。


「で、誰に使うの?」

「え? 何のことだい?」 

「俺に頼む、惚れ薬もどきだよ。まさか、幼馴染って……お姫様か?」


 思いもよらない言葉に、男人魚はあっけにとられたような顔をしていたが、彼はすぐにしたり顔になると、ネズミを見付けた猫のようににやけ出した。


「ははっ。お前が他人に興味持つなんて珍しいなあ」


 少年は舌打ちした。他人に本心を見せるのは好かない。これは迂闊だったか、と彼は自身に苛立ちを覚えた。


「心配しなくても、僕は庶民だし。王女様なんてちょっと遠くから見かけるくらいで、接点なんてないって。」

「ふーん……」

「なあ、お前。……まさか、王女様にほの字だったりするの?」

「はっ?! うるさいな!」


 少年がぎろりと睨むと、調子のいい男人魚は「じゃ、じゃあ頼んだからな!」と言い残して、逃げるように住処から出て行った。






 彼はそれを見送ると、またも深いため息をついていた。

 先ほどの男人魚とは腐れ縁のようなもので、軽口を叩くようなことはあっても、自分について語ることは一度たりとも無かったはずだった。他人に気を許してよかったことなど皆無、一人の方が気は楽だ。誰とも関わらなければ、裏切られることもない。人間は言わずもがなだが、人魚たちも仕事でなければ別に話したいとも会いたいとも思わなかった。ただ一人、あの人魚の彼女を除いては。


 青年人魚から話を聞いたから、というのもしゃくだったが、それでも妙に心に引っかかってしまい、気付けば水泡を浮かべていた。あの人魚姫を一目見たいと切望すると、泡の中にその姿がありありと映し出される。この魔法も、彼女のおかげでだいぶ進化を遂げた。今なら、遠目ではあるものの、ある程度の時間なら映し出し続けることができるようになっていた。


 岩に囲まれた水中には、彼女の美しい赤みがかった金の髪が広がっている。人魚姫は、今は濃い睫毛を伏せて、何やら考え事をしているようだった。成長して今日が成人だという彼女。歳月が経っても、あの天真爛漫な表情は変わらない。それに加えて、何とも愛らしく成長したものだ。そう考えて、はたと首を振った。少年には何の関係もないことだ。それなのに、今日は……何がそうさせるのだろうか。


 ふと、彼は先ほどの青年人魚の言葉を思い出した。人魚の成人は早い。彼女も、近いうちに他の人魚と結ばれるのだろうか。そう考えると、なぜだか胸の奥が針で刺されたようにチクリと痛んだ。

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