◇とある少年の独白 その4




 それから、どれくらいその場所にいたのだろうか。


 差し込んでいた日の光が弱くなり、海の中もだんだんと暗くなっていく。暇つぶしに数えていた足元のサンゴ礁は、もうあらかた数え切ってしまっていた。目前をいくつもの小魚の群れと、追いかける大魚が通り過ぎて行く。少年はそれらを見るともなしに見ながら、知らず知らずのうちに少女の言葉を幾度も反芻させていた。また戻ってくるとは言っていたものの、まだ幼い子供の稚拙な約束だ。どうせ口だけだろうと思おうとしても、彼女の真剣な眼差しを思い出すと、そうきっぱりと決めつけることもできずにいた。


 少年が我慢できずにふと目をあげると、遠くの方から泳いでくる小さな影が、視界の端に飛び込んでくる。――さっきの少女だ。顔が見える距離まで近づくと、刹那、目が合った。紫水晶のような不思議な色の目は、先ほどの天真爛漫なそれではない。なぜか、憂いをたたえて潤んでいる。そのことに気付くと、思いがけず少年の心臓は跳ねあがった。


「……う……うっ……早く、瓶……」


 少年の目の前まで泳いでくると、彼女の長い髪は羽を広げたかのように、一気に水中へふわりと広がった。


「まさか……本当に、泣いてるの?」


 彼女の瞳からは溢れた雫は、白く滑らかな頬に一滴伝う。そのまま海の水と溶けて交じりあうのではないかと思われたが、なぜか雫の形を保ったまま、水泡のように海中に浮かんだ。少年がもっとよく見たいと思い手を伸ばそうとした瞬間、老婆からもらった瓶が一人でに近くまで浮かび上がり、蓋が開いた。まるで何かの生き物が息を吸い込むように、雫はあっというまに吸い込まれて栓がされてしまう。彼の手中に納まった人魚の涙は、一見何の変哲もない水滴のようだが、光にかざしてみると今は虹色に光っているかのようだ。


「……あ、ありがとう……」


 少年があっけにとられていると、人魚の少女はいつのまにかまたあの無邪気な笑顔に戻っていた。先ほどまでの憂いなど、まるで嘘だったかのようだ。


「悲しいことをね、ずっと思い出していたらほんとに悲しくなっちゃった。えへへ」

「ほんとによかったの? だって、涙って……」


 たまに住処を訪れる人魚から聞いたことがある。人魚の涙には、薬の素材になる以上に特別な意味がある、と聞いていたような気がしたのだ。


「んー? だって、あなた困ってたんでしょ? 別にいいよ」


 彼女の無垢な笑顔を見ていると、何も知らない子供を騙してしまったようで、極まりが悪くなった。反面、この涙を誰も知らない場所に隠して自分だけのものにしてしまいたいという欲望に駆られる。それはきっと、希少価値が高いからだけではない。


 ――彼女の憂い顔も、泣き顔も、笑顔も、できることなら閉じ込めて誰の目にも触れさせないようにしたい。そんな突拍子もない考えが自分から出てきたことに彼は戸惑い、狼狽した。去っていく彼女を見ながら、少年は自分で自分のことがよくわからなくなり、首をひねる。これで堂々と胸を張って帰れるというのに、どうしたことだろう。






 それからは、彼が人魚の少女に会うことはなかった。


 にもかかわらず、ふとした瞬間に思うのだ。彼自身も知らない何者かが、ちょっとした悪事を吹き込むようにささやいてくる。あの岩場に行けば、彼女が通り過ぎるかもしれない。あるいは、グレーネの国のもっと近くに行けば、彼女が誰であるのかもわかるかもしれない。そう思い立った途端、大した期待はしないように、とはやる鼓動を押さえつけながら、近くまで行ってみたこともあった。だが、運が悪かったのか彼女と会うことはなかった。彼は落胆したが、それと同時になぜかほっとしていた。


 今なら、その理由が手に取るようにわかる。汚れの知らない彼女に自分が触れてしまったら、壊してしまうような気がして。近づきたいと思うのに、本当の自分を知ったら、彼女はきっと軽蔑するだろう。そう思うと、少年は自ら近づいていくことができなかった。


 それでも、時折少女の様子が気になった。今、彼女はどこで何をしているのだろうか。そう考えたのをきっかけに、あの水泡を水晶代わりにできないかと幾度も試行錯誤を繰り返していると、徐々に鮮明に映し出せるようになっていった。


 水泡の中に映る人魚の少女は生き生きとして楽しそうで、目を奪われた。ころころと鈴の鳴るような声で笑って、無邪気にはしゃぎ、誰も彼もからも愛されている。そんな彼女が羨ましかった。自分も彼女の傍で、あんな風に生きられたら、と心の隅で願った。


 だが、少年と人魚の少女とでは、生きる場所が違った。彼が人魚から敬遠されている魔法使いだと知れば、彼女は拒絶し、遠ざかっていくだろう。たとえ受け入れてくれたとしても、王女である彼女の周囲がそうはさせない。そう思うと、少年はやはりどうすることもできなかった。


 少年の頭の中が、どうしてあの少女に占拠されているのか、いつまでたっても彼はよくわからなかった。ただ、ふと気になった時に見守る不思議な生き物として、あの人魚は特別な存在であることに違いなかった。

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