◇狂いだす歯車
前を見ている余裕がなかったからか、すぐにどん、と誰かの肩にぶつかる。
「あっ……すみま……」
顔を上げて、はっとした。そこには空色の目を大きく見開いた端正な顔があった。ずっと会いたくて、同時に会いたくなかった人。彼に今の会話を聞かれていたかと悟ると、思いがけず頬が熱くなる。
「ローネ? いったい、どうした? カイにまた何か言われたのか?」
セアンの優しい声を聞くだけで、その顔を見るだけで、息が詰まったように喉の奥が苦しくなる。呼吸をするのもままなくなる。私は朦朧としそうな意識の中、最後の気力を振り絞ると、張り付いたような笑みを無理やり浮かべた。努めて明るい声を出してごまかそうとするが、声が震える。人間になって間もない時に、初めて彼と言葉を交わした時と同じように……みっともなくかすれる。
「カイ殿下は……関係ないです。なんでもないです」
「しかし……」
彼が心配そうに私を見つめる。嫌だ、そんな目で見ないでほしい。じわりと目頭が熱くなる。我慢できそうなものも、できなくなる。もう、優しくしないでほしい。私に期待させないでほしい。いっそのこと、カイのように冷たくしてもらえたら楽になれるのに。セアンの優しさは、私を余計に惨めにさせるばかりだ。
「本当に、大丈夫ですので!」
心の中ではこんなことを言いたいわけではなかったのに、私は引きつった笑みを浮かべてごまかした。彼と目を合わせると、その取り繕った顔がばらばらと今にも砕け散ってしまいそうで、うつむいたまま一礼する。そのまま一目散に走った。はしたない、などと気にしている余裕はなかった。城へ続く階段をあっという間に駆け上がって柱の陰に入るやいなや、私は力が抜けて膝から崩れ落ちた。
何をやっているのだろう、私は。自分が情けなくて、いっそのこと今すぐ泡になって消えてしまいたいくらいだった。
外からは、二人の話声が聞くともなしに聞こえてくる。
「カイ!! 彼女に一体、何を言ったんだ?」
セアンの声は、彼にとっては稀有なことに、苛立ちにも似た焦りを孕んでいるようだった。
「至極まっとうなことです、兄上。……それより、あの女は正妃にしないのなら、とっととここから追い出すべきだと思いますが」
走ったせいか、ただでさえ鼓動が激しいのに、その発言のせいでますますバクバクと脈打つ速度が上がっていく。追い出す……? さっきから、話が見えない。そんな展開など、ゲームでは見たことも聞いたこともない。その場から動けなくなっているのに、居てもたっても居られなくなり、私は気持ちばかりが急いていくようだった。
「正妃……? 何を言っている?」
「とぼけても無駄です」
小さく身体を丸めながら、息を殺しつつその言葉の意味を考える。
「……そう、か。だが、いずれにしろ追い出すというのは可哀想だ。私は彼女の出自がわかるまではここに居てもらいたいと思っている」
兄弟の会話は、噛み合わない。城に来たばかりの頃、晩餐の席でもそうだった。あの時と似ているようで、どこかが違う。彼らの間にはもっと違う種類の、切迫した空気が流れているような気がした。
「それは義理ですか? それとも、あいつが気になっているから?」
カイはなおも兄に対して食い下がる。
「……カイ? いったい、どうしたんだ?」
セアンも面食らったように戸惑っている様子だ。弟王子はなおも畳み掛ける。
「あなたの優しさは残酷です。まさか、兄上がルレオの王女と結婚なさる姿をあいつに見せるのですか? ほとぼりが冷めたら、まさかあの女を側妃にするおつもりで? ……父上と同じように。」
ふいに、はっと思い当たる。カイがここまで私のことを遠ざけようとしているのには……まさか、自らの母親が側妃であったことと何か関係があるのだろうか?
「カイ。君の母上のことについては……私が何も知らなかったとはいえ、すまなかったと思っている」
「謝らないでください。すべて、俺の母上の自業自得なんですから。」
カイの出自が思い出せないことが、心の中で引っかかっている。大したことではない、そう思っていたのに。彼があそこまで私を遠ざけようとすることが悔しくて、そして苦しかった。
「……知りたいですか?」
いつのまにか、眼鏡をかけた長身の青年が私のすぐ傍に立っていた。びくりと身がすくむ。彼にもまた、本心を見せずにごまかそうと口を開くが、うまい言葉が出てこない。
「……ラウニ様? あの、なんのことで……」
「知りたいのなら、付いてきてください。」
彼もまた先ほどからのやり取りを見ていたのだと思うと、恥ずかしさのあまり柱に頭を打ち付けたい気分になったが、そんな馬鹿げたことをしている場合ではない。
「どういうこと……ですか?」
「先日はお話しできなかった、僕が知っている限りのことをお話ししましょう。興味深いものを見せていただいたお礼です。どうです? 悪くはないでしょう?」
悪魔のささやきのような甘い言葉に負けて、私は手を取られふらふらと立ち上がっていた。明かりに誘われる夜の虫のように、彼に吸い寄せられる。自分に前世の知識があるとはいえ、その仔細をすぐに思い出せるわけではなかった。弱った心は判断しようという意識も働かないまま、渡りに船とばかりに警戒していたはずの人物に従ってしまう。
「ぜひ……お願いします」
これでは、まるで転生した意味もない。情けない限りだ。それでも、私は今すぐに知りたいという気持ちには勝てなかった。
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