◇言えない

「あの王女は、私を助けたと言う。浜辺に倒れていた私を介抱したのは自分だった、と。あの日、助けてくれた女性に礼がしたい、彼女の望みならなんでもかなえたいと思っていた。それなのに、心のどこかでそれが君だったらいいと思っていたんだ。私は、勝手だな……」


 私は、人魚です。介抱をしたのは確かに彼女かもしれませんが、あなたを救ったのは、私です。そう言えたらどんなに良かっただろう。唇が震える。言いたいのに……そんな資格は自分にはないように感じた。あの時、王子が一命をとりとめたのは確かに王女のおかげでもあるのだ。そう思うと、彼に嘘をつくような気がして、口にできない。出てきた言葉は、無難なものだった。


「勝手だなんて……そんなことはないです!」


 セアンは静かに首を振った。彼の存在はすぐ隣にいるはずなのに、もやがかかったように、ふとした瞬間に消えていってしまいそうだった。


「ほかの王族はとっくに結婚しているから、ずいぶん前から結婚するように周りからうるさく言われてきた。だから、条件を課したんだ。叶いそうで叶わない、条件。あの嵐の日に私の命を救ってくれた女性と結婚する、と宣言した。そうしたら……意外にも早く見つかってしまった」


 セアンは二十代前半くらいだと思うのだが、王族なのに許嫁がいないのは確かに不自然だろう。私が知らないだけで、今までの周囲からの圧力は相当なものだったに違いない。


「私の命を救ってくれた女性なら、どんなに身分の差があったとしても、父上や貴族たちや国民にも、誰にも文句は言われまい、と思っていた。加えて、それが王女なら言うことなしだ。そう、頭ではわかっているのだが……」


 私の好意はわかりやすく、言葉にせずともセアンに伝わっていたと思うのに、彼の態度は煮え切らない。隣国の王女を選ぶというなら、いっそのこときっぱりと振ってくれればいいのに、どこか割り切れていないようにも見えた。


「私は一国の王子として、自分の責務もどうすべきかもわかっているつもりだ。しかし……本当は逃げていたかっただけなのかもしれないな。君という、可能性に……」


 彼がまた寂しそうに、どこか遠くを見るような目をする。彫刻のように整った横顔を見つめていると、彼と踊ったのはどこか夢幻のようだった。彼のルートがもう断たれたのだとしたら、私の行く末は死へ向かうのみなのだろうか。


「すまない。今のことは全部聞き流してくれ。」

「……」


 つまり、セアンは私のことを気にしながらも、自分を救ってくれた王女と婚約するべきか悩んでいるのだろう。こんなの、ルートになかった。当たり前だ。私もセアンもこの世界に現実に生きていて、複雑な感情と共に揺れ動いている。


 だから、私からも一歩踏み出してみる。たとえそれが優しさであっだとしても、彼の方も私のことを悪からず思ってくれている、と信じて。


「セアン殿下! 私は……! それでも私は、あなたが――」


 あなたが、好きです。そう言おうと口を動かすが、声が出ない。まるで何かに封じ込められているように、その言葉は唇に乗って彼に届けることができない。ただ、むなしく喉に張り付いて、からからに渇いてかすれただけだった。


「――っ?!」


 なんで。どうして。なぜ、言えないの。喉から絞り出すような声を、別の音に変えてみる。愛している。大切に思っている。それらの言葉もむなしく息となって出て行っただけだった。


(もしかして……私からは愛の告白ができないようになっているの?)


 思い当たるとしたら、それしかなかった。悔しさに唇を噛む。優しいセアンなら、私が好きだと言えば、はねつけることなどせずに、それに応えてくれるかもしれない。あるいは、本心から。あるいは私を傷つけないために。あの「愛の告白」というのは、「相手からするもの」という意味で、ユリウスの意図しないケースが起きないように、魔法がかけられているのかもしれない。今となっては手の込んだ悪知恵に、あの魔法使いが憎たらしくなる。


 私は嘆息すると、口をつぐんだ。私の顔を訝し気に見つめている、彼の空色の瞳と目が合う。


「ローネ……?」


 私から、彼に愛を伝えるすべもなければ、その資格もない。改めてその事実が突きつけられたようで、息ができなくなる。それでも、私はむりやり笑顔を向けて、何とかその場を取り繕った。


「……いえ、なんでもありません」


 せめて、笑わなければ。彼に選ばれないのだとしても。負担になどなりたくない。だから、私は平気な振りをしなければ。


 頬の筋肉が引きつるのも構わず、私は無理に口角を上げた。もしかしたら、今の自分は化粧もぐしゃぐしゃになって、ひどい顔をしているかもしれない。それでも、油断したら涙が零れ落ちてしまいそうで、笑顔を崩すわけにはいかなかった。


 まだ、だ。

 まだ、私は選ばれないと決まったわけじゃない。そう自分に言い聞かせながら、判で押したような笑みを向ける。セアンは、そんな私の心には気づかない。当然だ。私は笑顔の仮面を被って、彼に気づかれないように振舞っているのだから。にも関わらず、気付いてもらえないと悟ると、皮膚が刃で切られたように切り裂かれていくような気がした。


 私は、勝手だ。自分で一線を引いておきながら、気付いてもらうことを勝手に期待して、そうならないと知ると、勝手に傷ついている。


「また、明日。おやすみ、ローネ」


 セアンはそのままゆっくりとテラスから出て行った。


「はい。おやすみなさい……」


 彼は悩んでいるというのに、自分の保身しか考えられない私はなんて最低なのだろう。


 舞踏会の夜。予想もしないことばかりが起こり、私の頭の中は混乱を極めていた。不穏な空気と、先の見えない未来。それはあたかも土砂降りの雨が降ってきて、これまでぽつぽつと道の先を照らし出していた明かりも、手元の灯すらも吹き消されてしまったかのようだった。


 これからのことを考えると胸騒ぎを覚えながら、私はセアンの後姿を食い入るように見つめていた。

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