◇焦燥

 気付けばもう随分と時間がたってしまっていた。二人はとっくに踊り終わっていると思うのに、何となくそのままホールに戻るのははばかられて、でたらめに廊下を歩く。階段を駆け上がり、かと思えば下る。華奢なヒールに足を取られ、みっともなくつまずきそうになった。それでも、その場から動いていなければ、自分自身も一歩も前に進めていない気がしてきて、私は落ち着かなかった。


 うろうろと階段の下に差し掛かったところで、すぐ脇のホールから出て、廊下の奥へと進んでいく黒い影が視界に飛び込んできた。黒いドレスの裾が翻る。あろうことか、それはあの隣国の王女のようだった。


 彼女の姿を見ると胸が痛むのに、なぜか私は向き合わなければいけないような焦燥に駆られた。重いドレスの裾を蹴り上げるようにして足を踏み出すと、小刻みに歩を進める。彼女はちらりと私に気付くと軽く会釈して、そのまま通り過ぎようとした。


「あの!」


 知らないうちに、私は彼女に声をかけていた。王女ははっとしたように私に向き直ると、手慣れた様子で、腰をかがめた。


「初めまして。ルレオ第一王女のユリアと申します」


 私も彼女に倣ってぎこちなく会釈をした。機械になったかのようで、滑らかとは程遠い動きだ。意味もなく歩き回っていたせいか、足の関節がきしむように悲鳴を上げている。それでもよろめかなかった自分を褒めてあげたいくらいだ。


「ローネと申します」


 彼女は突然声をかけてきた私を不審がっているようで、自分に何か? とでも言いたげに、不可解な面持ちで私を見つめている。


「ローネ様。どうかされましたか?」

「は、はい……」


 薄暗い廊下の中で、小首をかしげた王女の黒髪がさらりと揺れる。彼女を呼び止めたところで、セアンと婚約しないでほしい、などと言えた筋合いではない。だから、私は別のことを言おうと思案したのだが、ついと口から出てきたのは、自分でも何をバカなと思うような戯言だった。


「王女殿下。……私、あなたにお会いしたことがあるような気がするんです」

「――?」


 王女が怪訝そうに整った眉を寄せる。


「えっと、気のせい……ではないですか?」


 一国の王女相手に何を言っているのだろうという自覚はあった。それでも、なぜかそう言わなければならないような気がした。


「……そうかもしれませんね」


 私は心を落ち着かせながら、彼女をまばたきもせずに静かに見つめた。丸く大きな瞳には、まだ子供のあどけなさが残っている。私は、この目を知っている。そのことを、なぜか彼女に伝えなければならない気がした。自制心や羞恥心などどこかへ置いてきてしまったようだ。ひょっとすると、さっき飲んだジュースにアルコールでも入っていたのだろうか。


「……」


 王女も無言でまじろぎもせず私を見つめていた。その黒い瞳は動揺のあまり、わずかに揺らいだように見えたが、すぐに長い睫毛が伏せられた。それはあたかも、その色を見られまいとするかのようだ。


「急ぎますので。……失礼、致しますね」


 王女は私を残して足早に去っていってしまった。


 今夜の私はどうかしている。自分にかなうはずもない相手に話しかけるなど。こんなことをしても、セアンと彼女が婚約する未来を回避できる保証などないというのに。




                ***




 舞踏会はあらかた終わったのか、ちらほらと帰り支度を始めた貴族たちが挨拶を交わしていた。

 ふと、テラスの隅で柵に手をついて外を見ている青年がいる。見覚えのある金髪の後姿に向って、私は手を伸ばした。彼に声をかけたいのに、黒髪の王女と踊っていた光景が脳裏に焼き付いて離れない。彼の心は、もう彼女のもとにあるのではないか。そう思うと足がすくんでしまう。


 いや、違う。私はゆっくりと深呼吸をすると、これからのことを整理する。

 セアンが主人公と踊らずに王女と踊った場合は、舞踏会の終わりにすぐに婚約を宣言していたはずだ。私が目撃していないだけで、もう事が進んでいるのかもしれないが……大丈夫だ。私もちゃんと彼と踊ったのだから。


「――セアン、殿下」


 おずおずと声をかけると、彼はちらりと私を一瞥した。


「ああ……ローネか」


 なぜだか、声に元気がない。やはり隣国の王女と出会ってしまったからだろうか……?

 私はためらいがちに彼の隣に立った。まだ、諦めるのは早い。彼の真意を確認するまでは。


「舞踏会、終わりましたね」

「ああ……」


 セアンは微笑んだものの、どこか心ここにあらずといったように見える。

 だが、どうやって尋ねればいいのだろう。訊いたところで、答えてくれるとも限らない。それどころか、彼の心に土足で踏み込むことになってしまったら、逆効果だ。


「あの、王女殿下と……ご婚約されるんですか?」


 それでも、私の心の声は留まることを知らずに溢れ出してしまっていた。はっと口に手を当てるが、もう遅い。

 セアンは驚いたように目を丸くして私を見つめると、どこかあきらめにも似た寂しげな微笑を浮かべた。


「……参ったな。君には隠し事はできそうもない」


 一瞬、声を失う。心の底では、否定してほしかった。それなのにいざ現実を突きつけられると、身体が芯から音を立てて凍り付いていくような気がした。彼はテラスから外を見つめたままだ。夜の庭は鬱蒼と茂った木々がざわざわと音を立てて揺れており、どこか不気味だった。


「父上から、あの王女と婚約しないかという打診は確かにあった。」


 何と言えばいいのだろう。おめでとうございます。お似合いですね。そのどれもが本心から出る言葉ではない以上、私は何も言えずに黙りこんでしまった。


「だが……正直なところ、迷っている」


 横に並んで、夜風に当たる。普段より襟ぐりの開いたドレスはすーすーと私の肌を冷たく撫でていく。テラスの柵に手を置いて、彼に倣って空を見上げた。猫の目のように細い三日月が私の残り時間を表しているようで、やるせない憂いが覆い被さってくるようだ。彼の迷いとは何なのだろう、と尋ねるのに躊躇していると、セアンはようやく堰を切ったように話し出した。

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