◇モブキャラ…? 隣国の王女

 そうこうしているうちに、コツコツと私たちのもとに近づいてくる人がいる。


 艶やかな黒髪の華奢な女性。シンプルな黒のロングドレスを身にまとっている。彼女はセアンの目前まで来ると、優雅にお辞儀をした。線が細く顔が小さい。大きな丸い瞳も烏の濡れ羽色だ。まだ少女と言っても差支えのない年齢だろうか。美しい淑女が多い中でも、際立った存在感を放ち、見る者を釘付けにしている。


「セアン殿下。お初にお目にかかります。わたくし、隣国ルレオの王女、ユリアと申します」


 ――隣国の王女。そう聞いた瞬間に思いがけず戦慄が走った。


「隣国ルレオ……」


 彼女が、隣国の王女。モブ扱いだなんてとんでもない。独特の雰囲気に呑み込まれてしまいそうだった。


「わが国と海を挟んだ北方の国ですね。本日はお越しいただきありがとうございます」


 セアンは普段通りの完璧な笑顔を向ける。彼の視界の中には、もう私はいない。その視線の先は、黒髪の王女だけに注がれている。先刻まですぐそばで言葉を交わしていたはずなのに、今の彼はまるで、舞台上にいる知らない役者のようだ。


「女性からお願いするなどはしたないとは承知の上ですが、セアン殿下。わたくしとも踊っていただけないでしょうか?」


 彼女の言葉を耳にした瞬間、私は脳天を貫かれたような衝撃が走った。行かないでほしい。私のことを、ずっと見ていてほしい。この時間だけは私のそばにいてほしい。それがすべて我が儘だということはわかっていた。そして、私には引き留めるすべなどない、ということも。一国の王女と、一国の王子。答えは火を見るよりも明らかだ。はたから見ればお似合いなことこの上ない。

 セアンは私の方を一瞥することもなく、目の前の王女の手を取った。


「王女殿下のお望みとあれば、喜んで」


 周囲の羨望の視線がまとわりつき、幾人からは歓声が上がる。我こそはと意気込んでいたはずの令嬢たちも、もはや嫉妬より憧憬の方が勝っていた。そして、私は呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。


 確かに、私はセアンと踊ったはずなのに。どうしてだろう、このまま彼と結ばれる未来が見えなかった。それ以前にレオナルドやカイと踊ったからではない。セアンが隣国の王女と踊ったら、二人は婚約する。その方程式が呪いのように脳裏にこびりついて、離れなかった。


 王女と踊るセアンは、あの完璧ともいえる優美な身のこなしで彼女をリードしている。あの場所にいるのは自分だ、というじりじりと焦げ付くような痛みが胸の奥にはじけた。だめだ、いけない。このままこの炎が燃え上がってしまったら、取り返しのつかないことになってしまう。あの悪夢のように嫉妬に狂い、愛しい人を自らの手にかけるような惨劇を繰り返してしまう。


 私は首を振って、深呼吸をした。確かに、イレギュラーなことはたくさん起きているかもしれない。でも、当初の目的であるところの、セアンと踊るというのは達成できたのだ。一国の王子なら、王女からのダンスを断るわけにもいかない。それに、彼の先ほどまでの態度を見れば、私を好いているのは明らかだ。


 ……でも、本当にそうだろうか? すべて私の都合の良い妄想だとしたら?

 今まで確かに前に進めている気がしていたのに、実はその場で足踏みしているだけで、一歩も動いていなかったとしたら。


 そんな疑念がふつふつと次から次へとわき起こっては、沸騰した湯のように心から溢れ出していく。私はその場に立っているのもいたたまれなくなってきた。ばらばらの破片を必死に寄せ集めて、気丈にも立ち続けようと努力しなければ、今すぐにでもこの場で崩れ落ちてしまいそうだった。足元がおぼつかず、気付けば小刻みに震えている。同時に、このイベントが起きたら、主人公はバッドエンドまっしぐらのようなものだ、と耳元でささやく声が聞こえてくるような気がした。


 ……最後までやりきってみないと、解らないじゃない。

 でも、その「最後」が本当に自分の「最期」だとしたら?


 心臓が凍り付く。唐突に明かりを消されたように、目の前が真っ暗になっていった。このまま私が「闇落ち」でもしたら、ますます取り返しのつかないことになると思うのに、心が言うことを聞かない。いつのまにか、私はホールから出ていこうと重たい足を必死に引きずっていた。


 ふと、何の気まぐれかあの二人をもう一度見やる。この期に及んで自ら傷口に塩を塗りこむような真似をなぜ、と自嘲しながら。

 セアンと踊る王女は身のこなしも優雅だった。さらりと揺れる黒髪に、小さな顎。あのゲームでは姿形こそはっきりとは明かされていなかったが、見れば見るほど美しい。


「……?」


 大きな丸い瞳。カラスの濡れ羽色のような髪。なぜか私は、彼女をどこかで見たことがあるように感じた。実際は、そんなことなどないはずなのに。


 ……少し、予想外のことが起こりすぎて疲れているのかもしれない。私はため息をつくと、少し休憩しようとその場から立ち去った。

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