第257話 災厄の襲来-appear

「さて……」


 ジルは静かにそう呟いた。今まで一番低い声だった。

 途端に空気がガラリと変わる。


 痛い。

『寒い』とか『冷たい』を通り越して痛いんだ。

 まるで極寒の冬山を裸で登るような痛み。


 一刻も早く逃げろ、生きろと本能が訴えてくる。


 恐怖心が加速した。

 

 なんだ?

 何をしてくる?

 

 恐怖が疑心を産み、その疑心がさらに恐怖を育てる。

 悪循環に俺は陥っていた。


 ジルはそんな俺を、俺たちを嘲笑うようにオーバーリアクションで静止する。

 そのままゆっくりと、ゆっくりと俺たちを嘗め回すように眺めた。

 その一挙手一投足が不気味だった。

 

 吐き気がした。

 それは嫌悪からくるものなのか、恐怖からくるものなのか、将又両方なのか、分からない。


 ジルは満足したのか一瞬だけ真顔になり右手を高らかに上げた。

 全員に緊張が走る。


 ジルは一拍置いて、豪快に指を鳴らした。その音は修練場一体にこだまする。


「幕が開くぞ」


 ジルはそう言ってまた嗤った。

 同時に止んだはずの指の音が鼓膜を奮わせる。これは幻聴だろう。

 恐怖が、幻の音を作っているのだ。

 

 その所為か、俺は無意識に生唾を呑み込んだ。


「え?」


 不意にサリーが空を見上げる。敵がいる最中に。


 危ないということはわかっていたのに、俺もつられるように空を見上げた。

 嫌な予感がしたんだ。


「あ!」

 

 そこには……空の上には、巨大な球体のようなものが浮かんでいた。

 それは風船のようにゆらゆらと揺蕩う。


 青い空に目立つ濃い緑色の球体だった。


 いつの間にか、全員がそれに注目している。

 

 そして、その球体は突然、凄まじいスピードで落下を始めた。

 勢いはどんどんと加速していく。

 

 再び、全員に緊張が走った。


「水魔法! 『逆巻く瀑布リターン・ザ・ウォーターフォール』!」


 事態を重く感じたロベルトさんが即座に魔法を発動する。


 俺たちの周りを囲うように水の壁が出現した。それは下から上に水が螺旋状になって登っているというものだ。

 

「ハハハハハ。恐れておるなぁ。安心したまえ。これはただの『登場』だよ」


 ジルは嬉しそうに嗤っている。余裕綽々と言った言葉を体現しているかのようだ。

 

 登場。

 その言葉が引っ掛かった。

 

 俺はもう一度、その球体を見つめる。

 水の壁は魔法だからだろうか、視認性に問題はなかった。


 球体はもうすぐそこまで来ている。

  

「あ!」


 球体は地面に着地した。が、ドスンというような音はない。

 まるで羽毛が落ちたかのような、静かな、静かな、『登場』だった。


「あれは……」


 漸く球体の正体がわかった。

 

 魔獣だ。

 眼前に落ちてきたのは魔獣だったのだ。


 ビッグバルーン・フロッグ。

 それが魔獣の名前。

 その名の通り蛙の魔獣である。


 魔獣の中でもかなりの大型でだいたい全長十メートル前後。体重も一トン近い。


 特徴はその巨躯を膨らませ、空中を浮かぶ魔法を使ってプカプカと浮くこと。

 その状態で、即ち空中で、魔法によって跳躍することができ、でかい図体ながら機敏な動きをするトリッキーな魔獣である。

 

 獲物を見つければ、蛙らしくその長い舌で攻撃し、鞭のように叩きつけ対象を嬲り楽しむ。

 飽きれば、舌で絡め捕って食らうという獰猛な魔獣だ。


 分類は上級。非常に危険な個体である。

 さらに、見た目はでかいトノサマガエルと言った具合で、その醜悪さもあって出現が確認されれば優先的に駆除されるのも特徴の一つと言えるだろう。


 ただ、俺の知識があっているなら、この魔獣は本来こんなところにいない。

 ガイザード王国の北西部にある森林が生息地のはずだ。


 それなのに、何故?


 いや、そうか。こいつもまほろばによって用意された魔獣なのか。

 ハンマー・コングやトライデント・ボアといった使役されている魔獣と同じだ。


 まさか、ビッグバルーン・フロッグなどという魔獣まで出てくるとは。

 まほろばの恐ろしさを改めて思い知る。


 しかし、なんだ。この不安は。

 正体がビッグバルーン・フロッグとわかってなお不安が拭えない。


 正直、上級魔獣程度ならここにいるロバートさんやテレサ先生からすれば御しやすい魔獣のはず。

 

 この魔獣は複雑な魔法は使ってこない。

 空中での跳躍が厄介と言えば厄介だが、対処できないほどじゃない。

 身体強化の度合いも然程高くはないし、舌の攻撃も見切れるレベルだ。


 だからこそ上級。

 それなのに俺の中の恐怖心は未だ警報を鳴らし続けている。


 なんだ?


 また疑問符が脳を埋め尽くしていった。


「さぁ、ショータイムだ!」


 焦る俺を他所にジルはそう宣言してもう一度指を鳴らす。

 

 瞬間、ビッグバルーン・フロッグが膨らんだ。

 

 攻撃?


 そう思った。が、違う。

 もう、既にビッグバルーン・フロッグは膨らんでいたのだ。


 腹は突っ張り血管が浮き上がっている。

 眼も血走り、見開いていた。

 見た目からしてもう限界に膨らんでいる魔獣がさらに膨らんでいく。


 まさに異常事態。


 ビッグバルーン・フロッグは呻く。それは『嫌だ』と訴えているようだ。

 だが、膨張を続く。

 ミシミシと何かが軋むような音まで聞こえてきた。


「おいおい……マジか……」


 ロベルトさんも驚きを隠せないでいる。

 

 そうして、限界がきた。


 ビッグバルーン・フロッグが爆発したのだ。


「きゃあ!」


 サリーの悲鳴が聞こえると同時に蛙の魔獣の臓物と血が周囲一帯に飛散する。

 

 俺たちにまで飛んできた肉片や血、骨の一部たち。

 それらはロベルトさんの水魔法によって遮られ全て上空へと流された。


 ただ、水の壁は血と肉と骨が混ざりあって赤黒く変色しており酸鼻を極めてた色合いだった。


 水魔法を通り越して漂う死臭に近い異臭。

 それが俺の心をさらに惑わせる。


 事態が飲み込めないのだ。

 まさか、魔獣を自爆させることで俺たちを殺せると思ったのか。


 俺はもう一度ジルを瞠った。

 ジルはまだ嘲笑している。


 違う。

 これじゃない。

 この自爆が狙いじゃないんだ。


 怖気が背中を這う。


 赤く濁った水流の壁が漸く、元のクリアな色に戻った。


「な!」

 

 誰かの叫ぶ声。

 もしかしたら、それは俺の声だったかもしれない。


 魔獣がいた場所。

 そこに三人の人間がいたのだ。


『登場』

 ジルの言った言葉の意味がやっとわかった。


 これはただの『登場』だ。

 三人の新たな敵が『登場』したのだ。

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