第256話 災厄の襲来-hatred

 異質な空気が俺たちを包んでいく。

 それは宛ら悪魔が優しく、優しく、抱いてくるような矛盾した気持ち悪さを感じるものだった。


 汗が止まらない。

 喉が渇く。

 肌がひり付く。


 これに似た感情を俺は最近感じたことがある。

 否応なく記憶の底から蘇るあの感情。


 原初の恐怖!


 そうだ、これは……

 フェザー・ウォーバーで感じたあの恐怖だ。

 本能に刷り込められた抗えない恐怖。

 それが俺の身体に迸る。


 それほどなのだ。

 目の前にいる男は。


 王都護衛部隊の手練れを殺すほどの実力。

 そしてその首を放り投げる残虐性。


 眼前にいるのは、あの自然の底無し沼と同じ恐怖を醸し出していた。


『アイガ! アイガ! 聞こえますか!? 避難はできましたか!?』


 シャロンの声で俺は一瞬だけ恐怖を拭える。

 甚だ遺憾だが、そのお陰で我に返ることができた。


「シャロン、避難は失敗だ」

『どういうことですか!?』


 俺は深呼吸をする。一拍置かないと喋れなかったのだ。

 まだ、喉は砂漠のように渇いている。


「逃げようと思ったが、魔法陣の方角から敵が襲来。王都護衛部隊の二名が殺された」

『なんですって!?』


 シャロンの焦燥の声が耳元で響いた。

 

 それにしても……

 何故、こうもシャロンは焦っているのだ?

 いつものこいつならこんな状況でも余裕を崩さないはずだ。


 おかしい。

 なにかがおかしい。


 その変化が俺の中で恐怖とは違う感情として燻る。


「ほう、通信魔法が使えるのかい? 技術者エンジニアは完全に遮断したと言っていたが……穴はあったようだな」


 低い声だ。見た目とは裏腹に聞き心地は良い。

 

『アイガ、状況の説明をお願いします』

「敵が目の前にいる。正直ビビるくらい強い。悔しいがな」


 俺は恐怖に呑まれたという部分を除いて正直な感想を伝えた。

 自分でも笑えるほど声が震えている。

 

 シャロンに言った通り、相手は確実に強い。それこそ師匠や兄貴たちと同格だと思えるほど。


 加えて、明らかに異質。明らかに異常。

 強さだけじゃないナニカがこいつからは感じられた。

 そのナニカが俺に恐怖を覚えさせているのだろう。


『成程……敵の……敵の特徴はわかりますか?』


 シャロンの声が響く。

 やはり焦りのようなものが伺えた。


 それが俺に伝播してきそうになったので、今一度呼吸を整える。


「老齢の大男。身長は一メートル九十くらいか。パーシヴァル先生より一回り小さい。が、筋肉はパーシヴァル先生と同等だ。帽子を被っていて……白髪で……」


 そこで俺はある特徴に気付いた。

 それはこの男の一番の特徴だ。


 恐怖で今まで直視できなかったが……

 覚悟を決めて相対する敵に瞠目した瞬間、それに初めて気付いたのだ。


『アイガ? どうしました?』

「青い髭だ」

『え?』

「髭が青い。剃った後の比喩的な『青い』ではなく、髭そのものが青いんだ。青い髭を蓄えている」


 そう、男は青い髭を生やしていた。

 もみあげの部分から、鼻の下、顎に繋がる立派な青い髭。それが煌々と輝いている。


 こんな特徴に気付かないとは恥ずかしい限りだ。

 どうやら俺は自分の予想以上に恐怖に呑まれているらしい。


『そんな……』


 シャロンの声色が変わった。

 

 ん?


 波濤の如く、違和感が俺の心に押し寄せる。

 それは心に巣くっていた恐怖すら塗り替えるほどだった。

 

 どういうことだ?

 こんな声色のシャロンを俺は知らない。


『ジル・ド・ラヴァール……』

「ジル・ド・ラヴァール?」


 シャロンは力なく呟いた。

 俺はそれを何の考えもなく鸚鵡返しする。


「おや? 吾輩の名前を知っているのかい、少年。いや、違うな。その通信魔法の先にいる奴が吾輩のことを知っているのか」


 老齢の男、ジルは嗤いだした。

 再び恐怖が競り上がる。


 無意識に生唾を呑み込んだ。


 次の瞬間、俺の右手にあった魔法石が二つ割れ、光の粒子が溢れる。その粒子が耳元にあった粒子と合体し、一際大きくなった。


 やがて、それは俺の前で大きな輪となる。


『ジル・ド・ラヴァール……生きていたんですね……』


 シャロンの声が大きく修練場に響き渡った。

 どうやら光の粒子が増えたことで声量が上がり、声の届く範囲が広がったようだ。 


 しかし、何故この場でシャロンは相手と対話することを選んだんだ?


 それに……

 声の質も向上したのか、先ほど以上にシャロンの感情が浮き彫りになった気がする。

 直接、シャロンと対峙しているわけではないので予想になるが……

 この声から察するに……

 怒り?


 いや違う。

 もっと深い、深い感情の鬱屈を感じた。


「ほう、少年と繋がっていたのはシャロン、貴様か。成程、成程。いや、よくよく考えれば当たり前か。ここは貴様の学園なのだから」


 ジルはどこか懐かしむように空を見上げる。

 その姿はノスタルジーに浸る老人だ。

 それでも心に蔓延る恐怖は拭えない。


『貴方の目的は?』


 翻ってシャロンは冷静だ。いや、冷静を務めているような声だった。

 言葉尻が震えているように感じる。

 

「目的? 目的か……実はな、ここにいる貴様の生徒たちを奪おうと思っているんだ」

『なんですって!?』


 ジルの言葉に俺は慄いた。

 奪う。

 それは言葉通り、俺たちを『奪って去る』……つまり誘拐なのか。

 それとも例えとしての『奪う』であり、命を奪うことなのか。


 わからない。

 だが、恐怖心が最悪の未来を想起させる。


「シャロン。貴様はまた奪われるのだよ、吾輩に。ハハハハハ」


 あからさまな挑発だった。ジルは高笑いをしながら俺たちを睥睨している。

 一方でシャロンは光の粒子の向こうで沈黙していた。


 冷たい空気が流れる。


 そんな中、ジルの発言が俺の中で引っ掛かり、その部分がリフレインされた。


 また奪う?


 こいつは過去に一度シャロンから何かを奪ったのか?


 今までのやりとりから二人に因縁があるということはわかったが。


『赦さない』


 不意にシャロンが独り言ちる。

 同時に俺の身体に電流のようなものが走った。


 これは畏怖。

 小さく、小さく放たれた言葉が俺の身体を貫いたのだ。

 敵の放つ恐怖で震えている状態の俺が、新たな恐怖に塗りつぶされたのだ。

 それはここにいない。ましてや姿すら見えない、シャロンの声によってだった。


 今までは自ら湧きあがる恐怖だった。

 だが、これは違う。

 これは相手から与えられる恐怖だ。


 シャロンが本気でジルを殺そうとする純然たる殺意。

 それの余波が俺の身体を射抜いたのだ。


 今になって、やっとわかった。

 シャロンの感情の正体が。


 憎悪だ。

 これは果てしない憎悪だ。

 

 ジル・ド・ラヴァール。

 こいつはあのシャロンがここまで憎悪を抱く男なのか。


 そう考えると納得もできる。

 これほどまでに俺が恐れ慄いているという理由が。

 

 汗が止まらない。

 喉が渇く。

 肌がひり付く。


 異なる種類の恐怖が混ざり合い、俺の心をどんどんと侵していった。

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