第244話 モープル山の激闘-その五

 俺の左腕は死んだ。


 爆発し、痛みも感じない。

 比喩ではない。本当に爆発したのだ。

 

 黒い肉が飛び散り、白い骨が粉となって舞う。赤い血が火花の如く迸った。


 それでも……後悔はない。


 この左腕は辛うじて皮膚だけで繋がっている。感覚も消え、もう自分の意思は伝わらない。

 ただそこにあるだけだった。


 獣王武人の状態でこうなったのなら、もう終わりだろう。元の姿に戻ったとき俺の左腕は地に落ちるはず。腐った果実のように。


 だが……


 代償は払ったぞ。


 脳内に鳴り響く雷鳴の如き手応え。

 思い描いた音とは違うが、それでも近しい轟音が響いていた。


 宵月流秘奥義『霆』。

 口伝された通りなら相手の体内に霆が轟き、その身体を内側から爆破する技だ。

 しかし現状、白ローブの肉体は爆散していない。が、その身体には確実に秘奥義が貫いた。


 その証拠にあれだけ猛攻を繰り出していた白ローブの動きが止まっているのだ。


「がふ!」


 動かなかった白ローブが吐血した。

 憎たらしい白いマスクが黒い血に塗れる。


 さらに二、三歩後ろに下がり、よろめいた。


 全身の白ローブがじんわりと黒に澱んでいく。


 その身体に『霆』擬きの氣が鳴り響いていたのだ。


 左腕一つを犠牲にした価値はあった。


 俺は歯を食いしばり、満身創痍の身体を無理矢理動かす。


 脳には痛みが、けたたましく鳴り響いた。

 半歩進むだけで身体が悲鳴を上げる。

 限界を迎えた身体が俺の意思に逆らおうとしていたのだ。


 無様に倒れそうになる肉体。

 だが、精神が、矜持が、意地がそれを許さなかった。


 動け! あとでたっぷり休んでやる!

 だから! 今! この瞬間だけは!


「おおおぉぉぉ!!」


 無意識に雄叫びをあげ、俺は一歩踏み出した。

 意識が半分消えかかるが、闘争心だけでそれを繋ぎとめる。

 

 そんな状態で俺は右手に氣と力を込めた。

 最後の力を振り絞って、掻き集めて。

 この闘いに終止符を打つために。


 決死の覚悟を決めた瞬間。

 凄まじい殺気が俺を穿つ。


 俺はそれを浴びて恐れてしまった。

 必死に溜めた裂帛の闘争心も、心で誓った決死の覚悟さえも一瞬で揺るがせてしまうほどの殺気。

 それは次元の違う相手の本気だ。


 勝てない。

 それはわかっている。


 それでも……

 俺は心に生まれた怖れを振り払う。

 その上でもう一度、覚悟を決めた。


 精神の深奥から、魂の根本から、細胞の一欠片から湧きあがる衝動が、俺に今一度闘志を漲らせた。


 戦え! 殺せ! 喰らえ!


 獣の本能が、武人の本懐が、月神藍牙としての本質が、瀕死の俺を戦いへと誘う。

 もう、勝算などというものは考えていない。未来さえも。


「うがぁぁぁあああ!!」


 我武者羅に俺は懇親の右ストレートを撃った。

 

 ただ、それは容易く躱される。


「あ?」


 虚しく空中を走った拳に白い布が優しく舞い落ちた。それは今まで戦っていた白ローブが来ていた衣だ。


 俺は即座にそれを地面に捨てる。

 その先でマスクを付けた白ローブが佇んでいた。


 纏っていた衣を捨てたことでその身体が白日の下に晒される。


 黒い血に塗れながらも、浅黒い筋肉の鎧で覆われた上半身はあてやかの一言だった。

 呼吸だけで何故か気品が感じられる。


 木漏れ日に照らされたその姿は、どんな美しいものでも勝てないと思わせるほど秀麗だった。

 現にこの闘いが始まる前まで美しいと思っていた竹林はもう霞んでいる。


 美しいのだ。

 ただ立っているだけで美しい。

 筋骨隆々の肉体は均整がとれ、逞しさ以外に美しさを兼ね備えていた。

 凛とした姿勢がそれを一際輝かせ、その一挙手一投足が目を奪われる。


 完成品だ。


 人として、戦士として、それは完成された作品だった。


 長い亜麻色の髪が束ねられていて、それが風で戦ぐ。まるで自然が男を際立たせているかのようだった。

 

 男はゆっくりとマスクを外し、捨てる。


 その貌は艶やかだった。


 所謂イケメンとやらに分類される顔だろう。はっきりとした目鼻立ちは彫刻を彷彿とさせた。

 それでいてどこか無邪気さを感じるのは俺の気の所為だろうか。


 改めて見れば身長は一メートル九十くらいか。重さは分からないがきっと百と少しくらいだと思う。それは脂肪ではなく筋肉によって構成されたまさに重戦車と呼ぶべき肉体だ。


 この肉体を相手に戦っていたのなら、これまでの戦闘も納得できようというものだ。

 その干戈かんか、俺が今まで戦ってきたどの相手よりも凄まじい。圧倒的だ。

師匠も含めて、な。


 俺は軽く息を整える。


 決定的な敗北を前にして、耐えがたい辛酸が口に広がっていた。それは脳を裂く激痛のサイレンすら凌駕している。


 次いで死が過った。

 走馬灯も悔いも大量にある。


 それなのに……


 この相手と戦いたいという欲望が止まらない。

 

 死の恐怖も生への執着もかなぐり捨てるほどの戦闘欲求が俺を優しく、果てしなく包み込んでいく。


 その所為だろうか、俺は嗤っていた。


「うおおおぉぉぉ!!」


 今日何度目かの雄叫びを上げ、俺は一気に走る。もう痛みはない。

 右手に多量の氣を宿して只管に走った。


 男は地面に黒い血を吐く。

 そのまま、俺に視線を合わせてニヤリと笑った。


 この上なく幼く、この上なく残酷な笑顔だ。


「もう……いいか……楽しもう! この至上の殺し合いを!」


 聞き心地の良い低い声が殺意を孕んで木霊する。

 そして嗤いながら男の両手に神々しいほどの炎と雷が生まれた。


 先ほどまでとは比べ物にならない純度の綺麗な魔法だった。


 やはり……

 この男は今まで本気じゃなかったのか。


 まだ間合いの外なのに、その炎と雷の熱で俺の獣毛が焼けていく。熱だけで鋼の如き獣毛が焼けていくのだ。


 その火力、魔力、未だ底が見えない。


 これじゃあ、まるで……

 存在自体が災害のようだ。


 そう、災害なのだ。

 眼前にいる相手はそのレベルの化け物だ。


 理解したならば……

 逃げればいいのに……


 どうして……


 俺は挑むのだろうか……

 前に向かって、敵に向かって走っているのだろうか……

 満身創痍のこの身体で……


 勝ち目など微塵もない。

 ここから大逆転はあり得ない。


 それなのに……


 戦いたいんだ。心行くまで。


 あぁ、もう考えることすら億劫になってきた。


 余計な思考を捨てよう……

 そうしてこの甘美な思いのままに拳を奮おう……


 堕ちて行くように……


「はぁぁぁあああ!!」

「しゃあああぁぁぁ!!」


 二つの咆哮が重なる。

 もうそれはどちらから発せられているかはわからない。


 俺の意識はもう……

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