第234話 フェザー・ウォーバー-その九
「はぁはぁはぁ……」
俺は今、レクック・シティのワープ・ステーションにいる。
命からがら帰還に成功したのだ。
そこで外が見えるベンチに腰かけ項垂れながら地面を眺めていた。
乱れた息はずっと荒いままだ。
一向に戻らない。精神的に疲弊している点が大きいのだろう。
体力は戻っていた。が、予想以上に精神を削られている。
「ふふ……」
自嘲気味に笑う。自分の精神がここまで貧弱だとは思わなかったのだ。
脳裏にはあの沼の恐怖が今もこびり付いている。
魔獣と闘った手の感触よりも沼に引きずり込まれそうになった足の感触のほうが強い。
フェザー・ウォーバー。
あれほど恐ろしい存在を俺は知らなかった。
原初の恐怖。
それに尽きる。
軽く嘆息し、街行く人々を眺めた。
仕事を終えた人、子連れの人、そして夕餉の時間だからか、街からは晩餐の良い匂いが漂う。
それらを感じてやっと日常に戻ってきたのだと安堵した。
平和な日常に触れたことで少しだけ精神が回復した気がする。
冷静に思い返せばあの場所にいた魔獣たちはおかしかった。
本来なら獲物がいれば襲ってくるのが魔獣だ。勿論、様子見をすることもある。が、それにしても異常だった。
様子見に徹しすぎだ。それはまるで己よりも上位種がいるためお預けを喰らっているような……
そう、お預けだ。
あそこにいた魔獣は全員、判を押したようにお預けを喰らっていた。
一番下位のトライデント・ボアはお零れを貰える可能性が低い。
だからこそ危険を冒してでも最初に俺たちを襲ったのだろう。
その結果、返り討ちに会い、上位の存在であるあの沼に喰らわれてしまった。
トライデント・ボアが沼に落ちた瞬間、周囲にいた魔獣たちの空気感が変わった気がした。あれは気の所為じゃないはずだ。
今なら理解できる。
魔獣たちも恐れていたのだ。
あの沼を。
闘いの最中、ふとあの沼に魔獣を落としたらどうなるのか、と思ったが……
その結果が齎した答えは俺の想定通り……いやそれ以上だった。
魔獣ですら恐れるモノがこの世にあるということを証明してしまったのだから。
凶暴な魔獣が躊躇う沼。
その深奥にあった本能に訴える恐怖。
それを思い出し、身体が自然と震えた。
もう二度と味わいたくない。
あれは闘争の類とは違う。
生き死にを超越した恐怖は抗い難く……そして不快だった。
耐える。忍ぶ。克服する。
そういう次元ではない。
挫ける。敗れる。屈服する。
無慈悲に、強制的に。
俺はもう一度、日常を望んだ。
人々の日々の営みの風景。それがまた俺の心に染み渡っていった。
やっと立てるだけの気力を取り戻す。
「帰りますか」
イザベラに向けて呟いたが、果たしてそれは己自身に言ったのかもしれない。
ただ、俺の言葉にイザベラは満面の笑みで「はい」と答えた。
早く学校に戻ってウォーバライトを使いたいのだろう。
そう考えると、ここで時間を取らせたのは悪かったかもしれない。
ただ、即座に学校に帰れるほどの体力は残っていなかったのだ。
二人で学校を目指す。
ご機嫌のイザベラが前を歩いていた。
よくよく考えればあのウォーバライトなる鉱石がどのような実験に使われるのか聞いていない。
まぁ聞いたところで理解できると思えないし、説明されても混乱するだけだろう。
そんなことを考えていると学園に着く。
長く感じた任務もこれで終わりだ。
「じゃあ、俺はこれで……」
「あ、待ってください」
イザベラはいつの間にか真顔になっていた。
「ちょっと渡したいものがあるので、一緒に研究棟まで来てくれませんか?」
「渡したいもの?」
それは予期しない言葉だった。
本来ならここで別れるつもりだったのだが……
既に任務は終了している。
ウォーバライトの採取及びイザベラの護衛。
任務に関していえば贔屓目に見ても九十点といったところだろう。
まだ何かあるのか?
渡したいものとは一体……
「はい! 今回のお願いを……任務の依頼を達成してもらったお礼として渡したいものがあるんです」
「お礼?」
渡したいものとはそういうことか。
そもそも脅迫に近い形で任務に行かされたのでそんなものがあるとは思ってもみなかった。
「別にいいですよ。お礼だなんて」
正直、お礼は気になるが今は早く帰って眠りたい。その気持ちの方が大きかった。
だから申し訳ないがイザベラの申し出を断った。
「駄目ですよ。成果には報酬を与えよ、と私が尊敬する魔導士の方も言っています。時間は取らせませんから是非受け取ってください」
有無を言わせないようなイザベラの強い口調に俺は熟考する。
「わかりました。そこまで仰るなら頂きます」
俺は意見を翻すことにした。
まぁ、貰えるものは貰っておいて損はない。
それに研究棟の一階には食堂がある。序にそこで晩飯を食って帰ればいい。
改めて、俺とイザベラは研究棟に向かった。
学校の中にはまだ人がちらほらいる。
研究棟に着き、食堂を覗くと楽しそうに晩飯を食べている学生たちがいた。
その光景を見て、あとで何を食うか思案しながらイザベラに続いて二階へ上がる。
道中、食堂から零れる匂いは空腹を良い感じに刺激した。
「あ、お礼を用意する間アイガさん、シャワー浴びられますか?」
不意にイザベラが振り向き聞いて来た。その視線は俺の足元に向く。
視線を追って、自分の足を見ると、成程泥だらけだ。忘れていた。というか、気にもしていなかった。
フェザー・ウォーバーの沼を練り歩いたため泥塗れになったが、もう半分渇きつつある。
泥を認識した途端、不快感が込み上げてくるから不思議だ。
シャワーを借りられるなら今すぐに落としたいという気持ちになった。
「いいんですか?」
「はい。どうぞお使いください」
イザベラは笑顔で部屋の扉を開く。そこは初めて彼女と出会ったあの教室だ。
ふと初対面のときの彼女の下着姿が浮かぶ。
おっと……
俺は頭を振って脳内の映像を消す。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
イザベラがにっこりと笑った。
うん?
何故だろうか、その笑顔がいつもの無邪気な笑顔とは少し異なっているような気がした。
「ここにあるタオルは自由にお使いください。使ったら、この籠に入れておいてくださいね」
イザベラは中を案内してくれた。
ふむ、中は至って普通のシャワー室だ。
寮にあるものと相違ない。使い方も知っているので問題なかった。
「ありがとうございます」
「では」
イザベラは笑顔のまま退室した。
その笑顔が何故かずっと心に残る。
まぁ、いいか。折角だし、ひとっ風呂浴びてこの身体に纏わりつく不快感をさっさと洗い流そう。
俺は衣服を全て脱ぎ、シャワーを浴びる。
暖かい湯が精神と身体を汚染していた沼の残滓を洗い落としてくれた。
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