第233話 フェザー・ウォーバー-その八
『弾月断刀』。
宵月流の蹴技の一種だ。
足を折り畳んだあと、すぐに蹴りを放つのではなく、その足を一旦手で固定し威力を溜める。その後、解放しその溜めを威力に乗せる技だ。
早い話、デコピンと同じ要領である。
ただ、威力の乗った蹴りはデコピンとは比べ物にならない威力を持つ。
俺はこれを空中で出すことが多かった。
空中ならば、溜めが持続しやすく、その分だけ威力を上げられるからだ。
先日、ランチャー・ベア・ワイルドに撃った際も空中で溜めて、放った。
その時と同じように俺は右足を畳み、右手で押さえる。
今に爆発しそうな己の筋肉を必死に封じ込めた。
脈動が、右手に伝わる。
事切れたトライデント・ボアを踏み台にして、高く跳んだ。
相対するトライデント・ボアは仲間を貫いた一本角を引き抜き、その切先を俺に向ける。
俺は空から、敵は地表から、視線が交錯した。
仲間を穿ったトライデント・ボアの眼は憎悪と憤怒に満ち満ちている。
その感情の全てを俺にぶつけるように嘶き、殺意を角に乗せた。
タイミングを誤れば、その鋭利な角が俺の肉体を貫くだろう。
死が徐に俺の肩に手を掛ける。
あぁ、そうだ、この感覚だ。
明確な殺意を向けられたことに伴って恐怖が湧く。
鳥肌が粟立ち、悪寒が奔り、身震いが起きた。
だが、俺は嗤っている。
この程度なのだ。
殺意、闘争、痛み、生死。
それに関する恐怖は所詮、この程度だ。
先ほど沼で体感した恐怖に比べればなんと可愛いことか。
その拙い恐怖が俺の脳を覚ましていく。
覚めた脳が周囲の風景をより明確に、より緻密に、刻んでいった。
俺の身体がそれに合わせて呼応する。
今、確信した。
この技が成功すると。
脳は余計な情報を捨てていく。
自動的な取捨選択が完璧なタイミングを計っていく。
彼我の距離はどんどんと狭まっていった。
凄まじい速度を体感しながらも脳が見せる光景はスローモーションだ。
全てがゆっくりと動いていく。
「ぶひぃぃぃいいい!」
喚く猪の声すらもう俺の脳は処理していない。
自分の呼吸の音と心臓の鼓動だけが静寂の中に響いていた。
景色を俯瞰で見ていながら、敵の動きの一挙手一投足まで見逃していない。
まるで複数のテレビを同時に見ているような、それでいてその全てを理解しているような、そんな感覚だった。
あと、少し。少し。
そう……
ここだ!
俺は右手を解放した。
「は!」
雄叫びに近い声が轟くと同時に抑圧から解放された右足がトライデント・ボアの角に決まる。
氣が一気に流れた。
同時に蹴りの衝撃が角を襲う。
ガシッとまるで金属同士がぶつかったような音が響き渡った。
同時に去来する確かな手応え。
トライデント・ボアの一本角は音を立てて折れる。
「ぎひぃぃぃいいい!!」
無様に啼くトライデント・ボア。
角は勢いよく回転しながら空中を舞った。
俺は着地と同時にその角を取る。
これは僥倖だった。
狙ったわけではない。
ただ着地する場所だけは少し補正したが、こうも上手く折れた角を取れるとは思ってなかった。
自慢の一撃に慢心することなく、どこまでも冷静な俺は瞬時にそれを武器にすることにした。
角を握った左手は俺が意識するよりも前にもう動いている。
逆手に持ち、トライデント・ボアの右目に突き刺した。
「ぶふぃぃぃいいい!!」
眼球を潰す感触が左手に伝わる。
ゴム風船を割ったかのような感触だった。
それ以上の感慨はない。
俺は右手に力を入れる。
全身が次の技の準備に入った。
「しゃ!!」
右の正拳突きを砲弾の如く、射出する。
着弾の少し前、わざと踏み込む右足をいつもより手前に降ろした。
バランスが僅かに狂う。
姿勢が前のめりになった。
それでいい。
狂った姿勢のまま右の正拳がトライデント・ボアの横っ腹を穿つ。
「びゅひぃいいい!!」
「宵月流! 『零月霊燦』!!」
『零月霊燦』。
それは、秘奥義の巫に近い技だ。
その妙は鎧通しに近い。
身体の外から衝撃を通すのではなく、内側に直接衝撃を叩きこむ。
わざと攻撃の着弾点をずらすことで衝撃を内側に送るのだ。
それに加えて氣の威力も乗る。
巫ほどではないにしても、その威力は容易に魔獣を屠ることが可能だ。
正し、十分に溜められれば、の話だが。
現に眼前のトライデント・ボアは絶命に至ってはいない。
黒い血反吐を撒き散らしてのたうち回るだけだった。
溜めが足りなかった。
だが、それでいい。
こいつ一体にかまけて居られないのだから。
今も尚、この辺り一帯に魔獣の気配をごまんと感じている。
こいつらは狙っているんだ。
俺の意識の全てがトライデント・ボアに向くその瞬間を。
そして、それは致命的な隙となり、そこを突いて魔獣たちは急襲してくるはずだろう。
それだけは避けねばならない。
不意に殺気を感じた。
周囲の魔獣たちが様子見から参戦に乗り換えたのだ。
最早、トライデント・ボアの敗死は明白。
もうこいつらに期待することはなくなった。
ならば、自分たちが仕掛けて貪ればいい。
魔獣たちがそう判断したのだろう。
蠢く殺意がどんどん強くなっていく。
一体何匹いるのだろうか。
夥しいほどの殺意が渦のように俺とイザベラに向けられていった。
獣王武人を使えば容易にここを突破できるはずだ。
しかし、それはできない。
イザベラの前で変身することになってしまう。
ならば、どうするか。
答えは簡単だ。
「イザベラさん!」
俺の声に反応してイザベラが右手を挙げる。
その手には彼女のオリジナル魔法具、巻石があった。
「いきます!」
手筈通り。
俺の左手にはずっと巻石に繋がるロープが握られている。
巻石が発動した。
それに合わせて俺の左手のロープが一気に巻き取られていく。
先を走るイザベラの方へ俺は猛スピードで引き寄せられていった。
魔獣たちは一瞬、呆気にとられる。
予想外の速度で離脱する俺に攻撃のタイミングを見失ったのだ。
それでも即座に立て直して飛び出す何体かの魔獣。が、遅かった。
俺は先行していたイザベラの元へ到達すると同時に彼女を担ぐ。
「きゃ!」
「少し辛抱してください!」
そのまま、引き寄せられていた速度を利用して加速するようにダッシュした。
風を感じるように、否、風になったかのように駆ける俺に魔獣たちは追い付けない。
やがては追い付かれるかもしれないが、何キロも魔獣から逃走するわけじゃない。
距離は凡そ二百メートル。
それだけを逃げればいいのだ。
小屋の周りのエリアに入ってしまえば一層強力な結界魔法の恩恵を受けられる。
そうなると如何に強い魔獣と言えど、おいそれと強襲することは叶わない。
ワープ魔法陣のある小屋は、それほど強固な魔法で守られているのだ。
これは今まで任務で各地に赴いた時から把握済みだ。
俺の足はさらに加速する。
息切れも、筋肉の疲労もこの時だけは忘れていた。
沼から離れるほど、俺の背に這っていた恐怖が拭えていった。
温い風が気持ちのいい風に変わっていく。
空を見れば、曇天も晴れていった。
無事にワープ魔法陣の小屋に辿り着いた頃には、俺は久方ぶりの安堵に包まれていた。
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