第231話 フェザー・ウォーバー-その六

 今にして思えば何故、この土壇場で氣を発動させたのかはわからない。

 魔獣や魔法使い相手なら露知らず、よもや自然物相手に氣を発動させるなどいつもの俺からは考えられない行動だ。


 俺は恐れていたんだ。

 

 命のやりとりなんて幾度もしてきた。

 憎悪も憤怒も浴びてきた。

 血の匂いも臓物の散る場面も見てきた。

 今更、生死によって恐怖することはないし、パニックに陥ることなんてありえない。


 それなのに……


 俺は恐れていたんだ。

 その所為で視野も思考も狭まっていた。


 この恐怖。

 それは今まで感じてきたものとは全く違う。

 種類の異なる恐怖だった。


 痛みへの恐怖。

 殺してしまう恐怖。

 喰われる恐怖。

 死ぬことの恐怖。

 そして、拒絶される恐怖。


 これまでの人生で感じてきた恐怖の中にこれは無かった。

 その正体が今……漸くわかった。


 これは……

 未知に対する恐怖だ。


 今まで自分を象ってきたものが根底から崩れ去るような……そんな恐怖だった。


 だから、俺は一番信を置いている技術に頼ったのだろう。

 

 相手は自然だ。魔獣や魔法使いと言った生き物じゃない。

 効けばいい、なんて希望的観測も抱いていない。


 ただただ、この場を脱したいだけで俺は氣術に縋った。


 悔しいが俺は……恐怖に屈したんだ。

 

 毛骨悚然もうこつしょうぜんとする中、全身全霊の一撃を魔の沼に叩きこむ。

 断末魔に近い雄叫びと共に。


「しゃあ!!」


 沼に氣の一撃が入った。


「は!?」


 自ら打ち込んでいながらその威力に俺は驚く。否、慄いた。


 俺の周囲一帯の水は弾け、泥は吹き飛ぶ。

 氣の打撃によって打ち込んだ場所が半月状に凹んだのだ。宛ら月のクレーターのように。

 

 想定外。

 その一言に尽きる。


 ここまで大きな一撃になるとは思っていなかった。

 

 遅れて疑問が俺の中を駆け巡る。

 氣が沼に流れたからだ。

 即ち、氣が通ったのである。自然物相手に。


 氣は魔素を喰らう性質を持つ。

 故に自然物でも魔素があれば流れていくはずだ。


 だが……

 ここまで大きな反応は普通あり得ない。


 空気中、自然物に流れる魔素の量など高が知れている。

 ここまで大きな爆発は氣を体得してから見たこともない。


 沢山の感情が濁流の如く溢れる中、俺を捕えていた泥が崩れた。

 身体は拘束が外れ、自由になる。

 

 瞬間、身体がイザベラのほうへ引っ張られた。

 泥から脱したことで彼女の巻石の効果がやっと発揮されたのだ。


 俺は思考を置き去りにしながら沼を脱出する。


「え?」


 それは見間違いか?

 幻想か?

 

 しかし、間違いないなくそう見えたんだ。


 俺から離れた泥が無数の手の形になっていた。

 地獄から飛び出したかのような、地獄へ誘うような手だった。

 それは正に亡者の手。


 そして、吹き飛んだ泥の底。

 透明度など全くなかった沼の底。

 氣によって覆っていた泥の水が剥がれ、その底が垣間見えた。


 そこにあったのは……


 人の貌だった。


 泥濘の中にある窪みが完全に目と口の形になっていた。

 その表情は嘆きにも見えるし、怒りにも見える。

 口を開き、呪詛の言葉を吐いているようだった。


 聞いたことがある。

 人間は三つの点が集まれば、それが人の顔に見られる現象があるという。

 空を飛ぶ三羽の鳥や、ただの記号もこれによって顔に見えるらしい。

 心霊写真などはこれで説明ができるというが……


 ならば俺が見ている眼前の光景もその類だというのか?


 馬鹿な……

 あり得ない……


 何故なら俺が見ているそこにあるのは完全なる人の貌だからだ。

 三つの点、窪みなどではない。

 見間違いでもない。幻想でもない。


 完全に人の貌だった。


 目玉はない。言葉も吐かない。

 しかし、如実に人の貌だったんだ。


『こっちへ来い。お前もこっちへ来い』


 そう言っているような不気味な貌がそこにあった。


 これが恐怖の正体だったのかもしれない。

 そう理解した瞬間、悪寒が再び背筋を這う。冷汗は流れ落ち、さらに全身に鳥肌が立った。


 もし、イザベラがいなかったら俺は泣いていたかもしれない。

 恥も外聞もなく、大泣きしていただろう。


 この沼は危険だ。


 特殊指定領域。

 その言葉だけには収まらない何かがここにはある。


 沼の水は戻っていく。

 泥が、再び沼を覆う。


 もう、貌も手も無くなっていた。


 刹那の出来事だった。

 時間にすれば僅か数秒にも満たない。


 それなのにこれほど長いと感じるとは……

 早く、ここから出たい、逃げたい。帰りたい。

 二度とこの沼には入りたくない。もう見ることも考えることも嫌だ。


 心からそう思った。


 俺は奥歯を噛み締め、イザベラの元へ戻る。

 

「アイガさん!」


 地面に着地するなり俺はイザベラに気付かれないよう、目元を拭う。

 眼から零れた水滴をさり気無くふき取り、後方にいた魔獣を睨んだ。


 そこにいたのはトライデント・ボアだ。

 いきり立ち、興奮し、前足で地面を削っていた。


 俺は瞬時に構える。


 トライデント・ボアはもう走り出していた。

 

 出現したのは一体だけ。

 だが、周囲にはいまだ気配は消えていない。


 こいつは斥候か。

 俺は上に着ていたタンクトップを脱ぎ捨てる。


「来い!」


 この声をきっかけにトライデント・ボアが狙いを俺に定めた。

 俺はタンクトップを投げ、真正面からトライデント・ボアに挑む。


 氣の満ちた身体に這う恐怖はまだ消えていない。


 空中で投げたタンクトップがヒラリと開く。

 それによって一瞬、トライデント・ボアの突進が鈍った。


「はぁ!!」


 俺は回し蹴りでトライデント・ボアを迎え撃つ。

 月齢環歩の三日月に近いが、そうではない技になり損ねた蹴りでトライデント・ボアの右顔面を穿った。

 足首に衝撃が走る。

 痛みが、恐怖を思い出させた。


 俺の蹴足けそくはギリギリでトライデント・ボアの角や牙を回避する。

 この攻撃でトライデント・ボアは地面を転がった。

 

 心は、まだ騒めいている。

 

「うわああ!!」


 無様な雄叫びで俺は倒れるトライデント・ボアに乱打を撃った。

 稚拙で幼稚な武術からは程遠い攻撃だ。

 力任せに、何かから逃れるように、一心不乱に殴り続けた。


「ぶひぃぃいい!」

「は!」


 トライデント・ボアの断末魔で我に返る。

 地面に臥せるトライデント・ボアは俺の氣によって黒い血に塗れていた。

 既に事切れている。


 俺は己の拳を見る。

 震えていた。


 俺は恐怖に飲まれていたのだ。


 情けない。

 

「アイガ……さん?」


 後ろでイザベラの声が聞こえた。

 俺は軽く深呼吸をする。


 そして自ら顔を張った。

 後悔も反省も後だ。


 まずはここから脱出しなければ。


「すみません。大丈夫でしたか?」

「はい! ありがとうございます。やっぱりアイガさん凄いですね。まさか素手でトライデント・ボアを斃すなんて」


 羨望の眼差しが恐怖に負けた俺に突き刺さる。


 俺は歯痒く思いつつ、布袋からウォーバライトを取り出した。


「これだけしか取れませんでした。よろしいですか?」


 イザベラは満面の笑みになる。


「はい! 十分です。これだけあれば研究に使えます」


 イザベラの笑顔で少しだけ救われた気になった。


「きゃあ!」


 イザベラの悲鳴が響く。

 俺たちの後ろからまたトライデント・ボアが出てきた。


 まだ危機は去っていない。

 俺はもう一度心の中で闘志を燃やす。


 心に巣食う恐怖を無理矢理閉じ込めて。

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