第230話 フェザー・ウォーバー-その五
生温い水と柔らかい土の交じり合った泥は不快感を具象化したような感触だった。
ただの沼のはずなのに、一歩踏み出す毎に心の芯まで舐るような悪寒が全身を駆け巡る。
これは一体?
言いようのない不気味なこの感情。
純然たる殺意を向けられた時とも違う。
怒りや憎しみをぶつけられた時とも違う。
魔獣や魔法使いの戦いとは全く別の何かが、俺の中にある警戒心に火を灯していた。
気を付けろ!
そう本能が叫んでいる。
警戒の度合いは、近くでこちらを見ているであろう魔獣たちよりも上だ。
俺は気を引き締め、ゆっくりと歩を進める。
沼は汚泥で濁り、墨をそのまま垂れ流したかのような色合いだった。
透明度は無いに等しい。
沈んだ足の先はもう見えず、感触だけで歩かなければならない。
歩くたびに汚泥が俺の重さで沈む。
どこから底無し沼の本性が剥き出しになるかわからない恐怖。
そしてその境界線が視認できない恐怖が俺を蝕んでいった。
全神経を集中する。
底無し沼の危険もそうだが、本来の目的である鉱物の捜索も熟さなくてはならない。
俺は足で汚泥を擦りながら必死で硬い感触を探した。
だが、そのようなものは全くない。気色悪い泥の感触だけが虚しく伝わってくる。
俺は後方のイザベラをチラリと見た。安全確認のためだ。
彼女は祈るような仕草でこちらを望んでいる。
息を整え、また突き進んだ。彼女の期待には応えるつもりだ。
俺は弧を描くように沼を進む。
一直線ではなくできるだけ沿岸に沿うように歩いた。
「はぁはぁ……」
また息が乱れだす。
疲労もあるが、それ以上に脳裏に鳴り響く警戒が俺の精神を擦り減らしていた。
感触を確かめるため足を引きずるように歩く。これが地味に疲労を倍加させた。
汚泥が足に絡みつき、重さとなって疲れが溜まっていくのだ。
加えて、周囲に蠢く魔獣の気配、イザベラの警護、それらの心理的負担が徐々にだが確実に俺を蝕んでいく。
イザベラの方は、今のところ問題が無さそうだ。
最後にこの得体のしれない沼への恐怖。
二つの意味で底知れない、その恐怖が俺の体力と精神を奪っていた。
「ふぅ……」
息を整える。精神を落ち着かせる。
こんな感覚は久しぶりだ。
修行を始めた頃に近い。
俺は気を引き締め直して、沼を歩く。
どれほど時間が経過しただろうか。
十数分か、それ以上か、わからない。
体感としては一時間以上だとも思う。
冷汗が、ポタリと沼に落ちた。
その時。
「ん!?」
足に突然不可思議な感触があった。
俺は勇んで手を伸ばす。
汚い水の向こうにあるそれを俺は拾い上げた。
掌ほどの大きさ。
硬い。
また、その色に驚く。
黒い沼から取り出したそれは白かった。
泥水が落ちていくとさらに白さが際立つ。
白亜のような塊。
「それです! それがウォーバライトです!」
イザベラの声が聞こえた。
やはりこれが目当てのものだったらしい。
俺はさらに足を動かす。
すると面白いくらいに硬い感触があった。
俺はそれらを拾い上げる。
ウォーバライトだ。
今度は先ほどより少し小ぶりだった。
「おし!」
凄まじい緊張の中で、目当てのものを漸く発見できた喜びが俺の中から疲労感を消し去る。
俺は意気揚々と足を動かし続けた。
その度に汚泥とは違う感触が伝わる。面白いくらいに。
どうやらここが鉱石の在処だったようだ。
俺は腰に巻いた布の中に鉱石を入れる。
その上で、足元にある硬いそれを拾い上げた。
「ん?」
それは明らかに小さかった。
これは……
ウォーバライトではない。
手で触れればわかる。
感触も違った。
さっきまでの鉱石のそれとは違ったのだ。
硬さが違う。
こちらは脆い。脆いのだ。手で力を加えればボロボロと崩れていく。
鉱石らしさは微塵もない。
白さも違う。
ボトリボトリと汚泥が取れていく。
これは……
「骨か!?」
天啓の如き閃きが脳裏を駆け巡った。
冷汗がまた流れる。
魔獣を斃し、その皮を剥ぎ、解体した経験がここで活きようとは思わなかった。
しかし、その経験から、これが骨であるとわかったのである。
ただ、なんの骨なのかまではわからない。
魔獣か?
それとも人か?
背中にゾクリと虫が這うような感触があった。
俺は即座にイザベラの方を見る。
イザベラはポカンとしていた。
「な!」
彼女の後ろに魔獣の影が見える。
消えていた疲労感が恐怖とともに蘇った。
「イザベラさん! 巻石を発動してくれ!」
俺の叫びにやや遅れてイザベラがお手製の魔法具を発動させる。
その瞬間。
ガタンと俺の視線が下がった。
「なんだ!?」
俺は沼を瞠る。
ボコボコと気泡が浮かんでいる。
同時に足元の泥濘が俺の足に絡みついた。
「何!?」
「アイガさん!?」
イザベラの声が虚空に響く。
俺は懸命に足を抜こうとした。
しかし、足は汚泥に飲まれていく。
俺の筋量をもってしても抜け出せない。
先程とは違う沼の貌に俺の中の警戒心がマックスになる。
「くそ!」
俺は力一杯足を引き抜こうとするが、汚泥がどんどん絡みつくだけだ。
一向に抜けない。
焦燥感が、恐怖心が、心を蝕んでいく。
巻石も発動していた。
それなのに俺の身体は沈んでいく。
ロープが俺を巻き取るが、それ以上の力で俺が沼に沈んでいたのだ。
また天啓の如き閃きが俺の脳裏に走る。
瞬時に理解した。
これは捕食だ。
俺は今、この沼に喰われているのだ。
ここは底無し沼なんて生易しいものじゃない。
こいつは……
言うなれば……
人喰い沼だ!
理解と共に俺は本気で抗う。食虫植物に捕まった虫の如く。
だが、抵抗は虚しく俺の足は沈み続けた。もう膝まで飲まれている。
「ちくしょう!」
俺は気合を入れ直した。
「丹田解放!」
魔人の証明を発動する。
白のタンクトップ越しに背中の刺青が青く輝いた。
全身に力が駆け巡る。
俺は足に力を入れた。
「はぁ!」
一瞬、足が動いた。
俺は間髪入れず、拳を握る。
「丹田覚醒!」
氣術を発動した。
群青色の氣が身体を覆う。
そのまま拳に氣を流し込んだ。
「しゃあ!」
腰を捻転させ、その力を肩、肘、手首へと伝える。
背筋に這う恐怖を振り払うかのように、俺は氣の入った拳を沼に叩きつけた。
思い切り、力任せに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます