第225話 酷薄
シャロンは真顔のまま薄暗い廊下にて佇む。その貌は全ての感情を捨て去ったかのように冷たい。
そこは黒一色に塗れた暗鬱とした廊下だった。
嘗て、パーシヴァルが人形たちと激闘を繰り広げた場所。
黒罰回廊だ。
血が固まったような黒い壁。
血を彷彿とさせる饐えた匂い。
時折、怨嗟のような声が聞こえる。それはどこからか入った風か、それともこの場所が聴かせる幻聴か。
暫くして昏い廊下の先から一人の男が現れる。
筋肉を推し固めたような体躯の持ち主だ。
スーツを着ているが、その上からでもわかるほどの筋量。
スキンヘッドにサングラス。浅黒い肌は見るものを威圧するには十分だった。
男の名前はロドリゲス。
ロドリゲスはシャロンの前に赴くと直立不動の姿勢を取る。宛ら女王に謁見する騎士のように。
「お疲れ様です。わざわざご足労ありがとうございますね。では、こちらへ」
シャロンはロドリゲスを導くように黒罰回廊を歩く。
黒い廊下はどんなに歩いても景色が変わることはない。
真っ直ぐに伸びた廊下の左右には等間隔で扉と燭台が並ぶだけだ。
廊下は僅かに左右に湾曲しており、直線に歩いているつもりでもそれはまやかしに過ぎない。
さらにやや傾斜があり平衡感覚も微妙に狂わせられている。
全ての感覚が狂う魔の回廊。
それが黒罰回廊だ。
いつの間にか修復されたのかパーシヴァルの激闘の痕跡はなくなっていた。
二人は歩く。
いつまで経っても突き当たりは現れない。
「
唐突にロドリゲスが呟く。
「そうですか。引き続きお願いしますね」
シャロンは抑揚のない、感情の籠っていない言葉で返す。
「ところで
シャロンは立ち止まらない。
「総隊長なら大丈夫でしょう。彼は既に私の研究に興味を持ってくれていますから」
「どういう意味ですか?」
ロドリゲスは表情を一切変えず質問をした。
「彼はあぁ見えて国家に忠誠を誓っています。国家のためならある程度問題があっても看過してくれます。そして私の研究は国家のためになる、と判断されました。ですので暫くは泳がしてくれるでしょう」
ロドリゲスはサングラスを正す。
「泳がす……ですか」
「えぇ。現に私と貴方の密会がばれていますが何も言ってこないのがその良い証拠ですよ」
ロドリゲスは微かに嘆息した。
得心が言ったからだろう。
元王都護衛部隊の隊長で現在ディアレス学園の学長であるシャロン・ウィンストンと王都公安委員会の第二支部支部長の自分が何度も会談をしているのは確かに良いことではない。
足元を掬われる爆弾になりかねないだろう。
まほろばが襲撃した件があり調査していると言い訳ができるが、下手をすれば査問委員会に掛けられることも在りうる。
王都護衛部隊からすれば格好の餌だ。王都公安委員会を堕とすための。
しかし、現状何ら問題になっていない。
シャロンが言った通りならそれこそ納得ができるというものだ。
ただ、ロドリゲスも既にそこまではわかっていた。シャロンも同じ答えに到達しているということが嘆息に至った理由だ。
また、シャロンの言い方にも少しロドリゲスは引っかかっている。
『彼は国家に忠誠を誓っている』
その言葉、言い換えれば彼女自身は国家に忠誠を誓っていないようにも聞こえる。
国家に忠誠を誓っていない危険な人間の危険な研究。それは将来的に国家に危機を齎す火種になるのではないか。
邪推であればいいが、年端も行かない少年の体内に別の細胞を投与した人間が言うと薄ら寒く聞こえてしまうのは詮無いことだった。
加えて、それを知って尚、そのシャロンと協力関係にある自分もまた同じ穴の
ロドリゲスはそこまで考えて再び嘆息した。
「まほろばの狙いはわかりましたか?」
不意にシャロンから質問が飛んでくる。
ロドリゲスは即座に平常に戻った。
「不明のままですね。考えられるのは嘗てこの学園にあったとされる魔法兵器でしょうか。しかし、それは王都公安委員会の調査で無かったとされていますし」
「そうですね。先代の学長からもそのようなものは聞いていません。ただ、『無い』という照明は難しいですからね。まほろばがその噂だけで襲撃した可能性もあります」
所謂悪魔の証明だ。
無いということを証明することほど難しいものはない。
それ故にまだ王都護衛部隊も王都公安委員会もまほろばの狙いがわからないでいた。
いや、正確には決め手に欠けていた。
「学長はまほろばがまた襲撃してくると考えているのですか?」
ロドリゲスの問いにシャロンは立ち止まる。
そして
「えぇ」
微笑んでいた。
その表情を見て、ロドリゲスの全身に鳥肌が立つ。
王都公安委員会の人間としてこれまで幾度となく死線を潜り抜けてきた。
死を覚悟したこともあった。
そのロドリゲスが畏怖を感じたのだ。
死とは違う恐怖。
それは生物としての根幹にある純然たる恐怖だったのだろう。
「襲ってきてくれないと困ります」
どういうことだ?
ロドリゲスはシャロンの言葉の真意がわからなかった。
もう表情は崩れている。
「ここはディアレス学園という学び舎です。将来的には王都護衛部隊や王都公安委員会、ギルドなどに所属する勇猛な戦士を育てる場所です」
シャロンの空気が変わっていくのをロドリゲスは如実に感じている。
それは黒罰回廊すらも飲み込むほど昏く、濃く、深い黒だった。
「本物の命の危険を感じて、本物の戦いを知って、そこから学び、経験し、強くなっていく。素晴らしいことじゃないですか」
にっこりと微笑むシャロン。
そこには嘘偽りは感じられなかった。
「本気ですか? 相手はあのまほろばですよ」
気圧されながらもロドリゲスは返す。
冷汗が蟀谷を流れた。
「だからこそですよ。本物だからこそ価値があるのです。それにこの程度で弾かれるなら将来的に国家のために戦うなんて無理でしょう。王都護衛部隊や王都公安委員会は本物を求められているではありませんか?」
挑戦的な目だった。
ロドリゲスは生唾を飲み込む。
眼前に立つシャロンの本心。
それは余りにも危険な思想だ。
テロリストを強さの糧にするなど。
知識も経験も強さも未熟な生徒にそれを宛がうなど。
あり得ない。
だが一定の理解もできた。
そもそも戦いの場において弱者から死ぬのは必定だ。
いずれその場に立つならその真実を知っておくのも必要。
それが早いか遅いかの違い。
正し、そこに倫理がないだけ。
ロドリゲスはそこまで考えて改めて思う。
シャロン・ウィンストンという女性の怖さを。
彼女ほど酷薄な人間はない。
そして、彼女ほど己の底を見せない女性はいない。
ここまで本心をひけらかして尚、彼女はまだその奥底を見せていないのだ。
それはそのままシャロンの胆力に繋がる。
王都護衛部隊と王都公安委員会を巧みに操り、自分の研究に邁進する。
その研究とは非道そのもの。
それでも誰からも糾弾されない。それを許さない。また自己を省みない。
だからこそこのような危険思想を平然と吐けるのだろう。
「さて、そろそろですね」
笑みを消してシャロンが突然廊下にあった扉を開ける。
その先は本来、黒い教室があるはずだった。
黒罰回廊の教室は全て同じ造りになっておりロドリゲスも一度確認している。
しかし、そこにあったのは教室ではない。
見たこともない黒一色の廊下だった。
「な……何ですか!? これは……」
驚愕するロドリゲス。
それを横目にシャロンはスタスタとその廊下を進む。
「さぁ、こちらへ。本日貴方をお招きした理由がこの先にあります」
ロドリゲスは訳もわからないまま付き従う。
その先にあるものが己の価値観を根底から覆すものだとは知らずに。
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