第221話 告白-Metamorphose
全員が口を閉ざしている。
まとわりつくねっとりとした空気は鉛のように重くなっていた。
俺の思考は再び記憶の旅路に出発する。
きっと現実逃避だったのだろう。
俺が一番この空気に耐えられなかったんだ。自ら招いたというのに。
自分でも辟易するほど己の精神は脆弱だった。
悔恨の念と共に俺は闇の中に溶けていく。
そこに浮かぶは在りし日の忌まわしき思い出だった。
最も思い出したくない、仄暗い地獄の記憶。
場所は牢屋だ。
比喩表現ではない。
歴とした独房の中、宛ら動物園の檻のような場所に俺はいた。
三和土のような砂地の上で蹲っている。
獣化細胞を身体に投与して半日後。
それは訪れた。
突然、身体中に激痛が走る。
悲鳴を上げ、皮膚を掻き毟り、藻掻き苦しんだ。
助けなど来ない。
幾日、叫び続けただろうか。
窓のない牢獄で昼と夜の概念を忘失する頃、次なる悪夢が訪れた。
全身の皮膚が剥がれ、頭髪は抜け落ち、爪と歯は全て無くなっていった。
剥き出しの神経は空気に触れるだけで果てしない痛みを訴える。
筋肉は肥大化し、その鼓動でまた凄まじい痛みが奔った。
耐え難い激痛の中で眠れず、飯も食えず、それでも無理矢理、魔法で栄養を補われる。
余りの辛さからか脳は狂い、幻を見せた。常に現実と幻想が入れ替わっていく。
血反吐を撒き、涙は枯れ果て、己の糞尿に塗れた。
終わらない痛みと幻のなかで、生と死の狭間を何度も行き来する。
あれを地獄と言わずして何を地獄というのだろうか。
それだけじゃない。
次なる恐怖はすぐに去来した。
まずは右腕だった。
皮膚の無い筋肉が突如として再生を始めたのだ。それもはち切れんばかりに太く、逞しく、強く。それこそ人とは全く違う形で。
剥がれ落ちた皮膚も再生し、色合いも質感も全く異なるものになっていった。
次いで獣毛に覆われ、爪は刀のように鋭くなる。
獣への変貌。
それは思った以上に俺の精神を破壊した。
人でなくなっていく。
これほど悍ましいことはない。
右腕の次は左腕、足、身体と徐々に、徐々に身体が化け物になっていった。
そしてまた剥がれ、痛みが襲う。
それが半永久的に繰り返された。
いつ終わりが来るのかもわからない。
ただただ、自分が自分でなくなっていく。
それを俺は味わい続けたんだ。
激痛と幻想、変異の恐怖、全てが俺を壊していく。
そんな中で俺の眼前に立つシャロン。
その口から放たれる
見下し、嗤いながら呪詛の如く吐かれた言葉を俺は心に刻んだ。
いつか必ず殺す。
その思いはやがて執念になり、俺の魂を強くした。
一頻り絶望を味わうと世界は色を失う。匂いも音も、全てが消えていくんだ。
自分の悲鳴も聞こえない。
眠ることもできない。
時間も、年月も、季節すらもわからない。
今、生きているのかどうかもわからない。
身体、精神の限界はとうに超えていた。
尊厳も矜持も既に奪い去られている。
現実と幻想の狭間で意識も失っていた。
残っていたのはクレアへの想いとシャロンへの憎しみだけだ。
クレアへの想いが俺に生きる希望を、シャロンへの憎しみが俺を強くする糧になった。
一体どれほど、その地獄が続いたのかわからない。
喉は潰れもう声も悲鳴もでない。
ただ……ただ……耐えていた。
不意に訪れる痛みの終わり。
それが合図だった。
地獄が終わりを迎えたとき、俺はあの姿を手に入れていた。
呆然とする中、痛みは完全になくなり、幻想も見なくなっていた。
ゆっくりと立ち上がり、俺は己の身体を眺める。
同時に身体中から溢れ出る力を実感していた。
これが、力?
戸惑う俺にシャロンは薄ら寒い賛辞を贈る。
『成功よ! おめでとう! 貴方は力を手に入れたわ!』
狂気に満ちたその笑顔は吐きそうになるほど気持ちが悪かった。
厭悪するには十分すぎるほどに。
突如、シャロンは俺に向けて魔法を放つ。
光の弾丸だ。
『な!』
俺は咄嗟にそれを右手で弾く。
瞬間、紫色のナニカがシャロンの光の弾丸を破砕した。
『これは?』
俺は慄く。
この身体からあぶれる力がそのナニカだと解るのに時間が掛かってしまったんだ。
『全て成功している! おめでとう! 貴方の思い描いた通りよ!』
シャロンは俺の力を見て高らかにそう叫ぶ。
その時のシャロンだけはいつものシャロンとは違った。
今までは悪魔のようだったのに、その時だけは泣いていたのだから。
シャロンは狂ったように泣きながら笑っていた。
その姿は今でも忘れられない。それほどの衝撃だった。
『それが氣よ。貴方のための、貴方だけの、力よ』
取り乱したシャロンは涙を拭い、一瞬で普段の悪魔に戻る。
冷静にシャロンは氣を説明した。
俺はこの時までこの身体そのものが魔法に変わる、クレアを守る力だと思っていた。
行使はしていないが、それでもわかる。
己の肉体の圧倒的なパワーに。
筋肉が違う。感覚も違う。
単純なパワーが根本から違っていた。
だから、この肉体そのものが魔法に変わる力だと思っていた。
しかし、シャロンの説明を受けて俺は認識を改める。
魔法に変わる力。
それは氣だったんだ。
この身体が迸る紫色の湯気のようなもの。
これが氣なんだ、そう理解した。
魔を喰らい爆ぜる、毒に近いもの。
それが氣だった。
シャロンは最後に魔法で鏡を作った。
その鏡で初めて俺は己の姿を視認する。
そこにいたのは獣と人が混ざった化け物だった。
化け物の身体から零れる氣の残滓。
これが俺の力……
果てしない地獄の果てに俺は力を手に入れたんだ。
クレアを守る力を。
加えて、シャロンを殺す力を。
震えていた。
俺は震えていたんだ。
力を手に入れた喜びはあった。
だが、それ以上に啼いていた。
もう人間ではない。
その事実は思った以上に重く、深く、俺の心を抉った。
大粒の涙が瀑布の如く流れていく。
慟哭か、咆哮か、その両方か、兎にも角にも俺は声を上げていた。
それなのに嗤っていたんだ。
獣の口を目一杯広げて。
嗤っていた。
滲む景色の中で俺は何を考えていたのだろうか。
もうそれは思い出せない。
後悔はない。
そう思っていたけれど、そう思いたかっただけなのかもしれない。
人間を
俺はそれを右手に宿し、牢獄の中からシャロンの魔法によってできた鏡を破壊した。
説明通り、俺の氣は一瞬で魔法の鏡を粉微塵へと変える。
牢屋を膂力のみで捻じ曲げ、俺は久方ぶりに外界へと出た。
対峙するシャロン。
あの女は嘘くさい微笑みを浮かべていた。
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