第220話 告白-Another

 記憶はさらに深く、深く、沈んでいく。

 それは新雪の上を歩くように、或いは微睡みの中を眠るように、ゆっくりと、ゆっくりと沈んでいった。



 そこは薬の臭いに満ち満ちた場所だ。

 中央にある少し汚れた白いベッドで静かに啼く幼子。傷だらけで息をするのがやっとな痛々しい姿だ。

 何もできなかった弱者。

 あれは、俺だ。


 異邦人としてこの世界に招かれなかった、愛されなかった人間。

 ことわりの外にいる例外。

 

 リガイアの歴史の中で、少なくてもガイザード王国の歴史の中でも初めてのことだったらしい。


 魔法が使えない。

 

 魔法の世界でそれは考えられないことだ。

 どのような不具合が生じるのかも全く分からない。


 俺自身が生きられないだけじゃない。

 俺がこの世界に存在することでどのような事態に発展するのか……

 それすら予測できなかった。

 

 まさしく脅威。


 だが、そんなこと……俺にはどうでもよかった。

 俺からすれば、それは些末なことだったから。


 最も問題だったこと。

 それは……


 クレアを泣かせてしまったことだ。

 同時に彼女に十字架を背負わせてしまったことも。


 クレアは最高の才能を持っていると聞いた。

 それはあの日、この世界に初めて来たときに体感している。


 手も足も出ず、無様に死にかけた俺をクレアが救ってくれたんだから。

 消え行く意識の中、泣き叫ぶクレアの悲壮な貌は未だ俺の心に残っている。


 あの貌は不甲斐ない俺の所為で背負わせてしまった業だ。

 

 そしてもう一つ。

 これはただの我儘だ。わかっている。身の程知らずも重々承知。

 それでも譲れないたった一つの矜持。


 俺は守られたいんじゃない。

 守りたいんだ。


 クレアを。


 俺は……彼女の後ろにいたいんじゃない。

 前にいたいんだ。

 この手で……クレアを守りたいんだ。


 力のない俺が……生きられるかもわからない俺には力が必要だった。

 魔法とは違う力が。


 その力を欲したとき、アイツは現れた。

 希望と絶望を持って。


 力が欲しい。

 だから俺はあの悪魔と契約したんだ。


 悪魔は嗤っていた。この上なく無邪気で醜悪な笑顔だった。


 不安はあった。恐れもあった。逡巡もした。

 それでも俺はあいつに縋るしかなかったんだ。

 あの悪魔……


 シャロン・ウィンストンに。


 あいつは言った。


『力が欲しい? 貴方に何ができるの? この世界じゃあ生きるのが精一杯じゃない』

『あなた如きが彼女を守る? 笑わせないで。貴方如きに守られるほど彼女は脆弱じゃない。この世界を守るのが彼女よ。そして貴方はその世界に守られているの』

『虫が鳥を食べる? 草が獣を襲う? 海が蒸発する? 大陸が燃える? 貴方が言っていることはそれくらい荒唐無稽なの。所詮、夢物語よ』


 シャロンの言葉を思い出すたびに腸が煮えくり返る。

 

『理解しなさい。貴方は何もできない』


 そんな怒りも消えるほど、この世界の現実が俺を抑えつけた。

 悲しみと虚しさが俺の心に去来する。


『でも……』


 シャロンの顔色と声色が変わった。


『私の言うことを聞くなら貴方に力を与えてあげるわ。貴方が求める力をね』


 悪魔が微笑んだ。そして手を差し出す。

 それが契約の瞬間だった。


『さぁ……どうする? 虫の如く這って生きる? それとも虫のまま鳥を喰らう存在になる? さぁ……どうする?』


 俺はその手を握る。


 力を! クレアを守る力を!

 それが手に入るなら俺は悪魔とも契約してやる! 


 俺は悪魔と手を組んだ。

 その力が希望でも絶望でも構わない。

 クレアを守れる力が手に入るなら何だっていい。


 例え悪魔に傅いてでも、俺は力が欲しかったんだ。


 あぁ……そうか……

 遅まきながら理解した。

 俺も契約コントラクトしていたんだ。


 相手は幻獣じゃない。

 人の形をした悪魔だっただけだ。


 そう……

 これは……

 もう一つの契約……



 刹那にも満たない記憶の旅。

 微かな疲弊を感じながら現実に戻ってきた時、俺はその場の全員の顔を自然と眺めていた。


「力を欲したんだ。だから……俺はシャロン学長からこの細胞をもらい、身体に宿した」

「え? シャロン学長が……」


 ゴードンが蒼褪めながら呟く。

 

 俺は頷いた。


 シャロンの名前は敢えて出した。

 隠すと余計にいらぬ憶測を生む危険があったからだ。


 そもそも魔法を持たない俺がこの学校に転入できている時点でシャロンの助力があったことは明白。

 つまりここを隠すことは得策ではない。


「シャロン学長から獣化細胞を受け取り、それを体内に投与したんだ」


 自分でも笑いそうになる。

 あの地獄をたった一言で片づけるとなんと容易い文字しか残らないことか。

 

 実際はもっとえげつないものだ。


 だが、俺はシャロンの真実を隠し、事実を掻い摘んで説明する。

 

 細胞を手に入れ、身体に投与した。

 しかし、それだけでは不十分だった。だからこの力を使いこなすために元王都護衛部隊五番小隊隊長だったゲンブ・クロイワという人の下で修業をした。

 そこで氣を武術に昇華させた宵月流殺法術を学んだんだ、と。


 用意していた台詞はスラスラと吐けた。まさに嘯くように。

 この部分に嘘はついていない。ただ少し省略しただけだ。


 シャロンの悪行を隠したのはあの地獄を知られたくなかったから。

 加えて、今この場であの女の正体を晒すことが何のメリットにもならないからだ。


 シャロンは必ず殺す。

 その日まで俺はあの日々を秘めておくことにした。

 隠した憎しみが、怒りが俺を強くするからだ。


「じゃあ……シャロン先生はアイガ君が魔法を使えないことを……」

「無論、知っている。また氣術が使えることも、宵月流を習ったことも、あの化け物の姿も、全部知っているよ」


 俺の告白に空気は重くなる。

 夏の暑さも忘れるほど。教室の中は薄ら寒かった。


 不意に窓に映る自分を見る。

 既に人の形に戻っているのに一瞬、獣王武人の姿が映った。ような気がした。


 それは俺の心を映した幻だったのだろうか。


 それとも……

 俺の心がもう化け物になっているからなのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る