第216話 王都護衛部隊・総司令-後編
ベンジャミンは震える手を抑えながら眼前にいる王都護衛部隊総司令、アードラを凝視した。
その瞳に宿るのは驚嘆か、恐怖か、絶望か。
「それは
己を瞠目するベンジャミンの視線を弄ぶように笑いながらアードラは渡した資料を優しく説明する。
ただ、対照的にベンジャミンは薄ら寒さを感じていた。
「ご……ご、極秘資料じゃないですか! しかも! これは……四番小隊が持っているものよりも……正確です……」
アードラはイーブンからペロペロキャンディを返してもらい、椅子の背凭れに思い切り凭れる。
その姿は行儀の悪い子供のようだった。
「そ! それを先にもらっていたんだ。だからこの情報を彼らに渡すのは既に既定路線。情報交換ってやつだからね」
ベンジャミンはもう汗を拭うこともしない。
額から脂汗が滴り、睫毛を越え、眼球に到達した。
沁みる痛みよりもまだ驚きが勝っているのか、それでも彼は汗を拭わなかった。
「どうやって……この情報を?」
身体の芯まで凍らせるような寒さが逆にベンジャミンを冷静にしていく。
「向こうの委員長と直接話を付けたんだ。この前丁度良く王都評議会もあったからね。いい機会だったよ」
あっけらかんと笑うアードラ。
再び怖気に近い寒さがベンジャミンの背中を這った。
寒い。それなのに、汗が止まらない。
喉が渇く。砂漠のように、干からびていくようだ。
ベンジャミンはやっとこの時に理解した。
目の前にいる無邪気な総司令が、己とは全く違う人間だということに。
平民出資の
王都監察庁護衛部部長という立場に立って、自分は選ばれた人間になれたんだ、そう錯覚していた。
その錯覚から今、目覚めた。
眼前の総司令と自分ではあまりにも全てが違う。
立場も、権力も、実力も、何より胆力が違った。
王都公安委員会と話し合い、極秘資料を手に入れるなど自分には到底できない。
謀略、打算、偽称、瞞着のプロフェッショナル集団のトップを相手に、だ。
アードラが使った手はシンプルだ。シンプルが故にその怖ろしさが際立つ。
資料を見る限り、偽りはない。
それがさらにベンジャミンを震えさせた。
ベンジャミンはこの時になって己の背中を這う感情の正体がわかった。
これは、羨望と絶望だ。
彼は軽く息を吐いた。
目の前にいるのはアードラ・B・カノーネンフォーゲル。
王都護衛部隊の頂点、総司令という立場に座す人間だ。
そんな人間からすれば自分など羽虫以下だろう。
だから簡単に殺そうとする。
ベンジャミンは生唾を飲み込んだ。それでも渇きは癒えない。
汗は床に滴り、胃はもはや激痛を伴って痙攣している。
「承知しました。先ほどは誠に申し訳ありません。全て総司令の仰せのままに遂行いたします」
ベンジャミンは昏く濁った瞳で、淀み腐った心でそう言い放った。
彼の中の理解が加速する。
結果、とある答えに行きついた。
自分はただの歯車。パイプ。それ以上でもそれ以下でもない。
意を唱えるだけ時間の無駄だ。
壊れた部品は取り換えられるだけ。
即ち、自分がこの立場を失い、別の誰かが就いてまた滞りなく歯車は回る。
自分の死など何も生み出さない。
死とは手に入れた立場を失うことだ。それが何よりベンジャミンは怖い。
ベンジャミンは蒼褪めた貌のまま部屋を出ていく。
後ろでは朗らかな笑みでアードラが手を振っていた。
「虐めすぎですよ」
ベンジャミンが去った部屋でオッドが静かに呟く。
「そう? いいんじゃない。所詮監察庁程度だよ」
アードラは悪びれもせずにそう宣った。
「他の方に聞かれたら審問委員会に掛けられますよ、その発言」
イーブンが注意するがその貌は面白がっているように嗤っている。
「え? 誰が
アードラは椅子から飛び上がり、机に腰かけた。
「それもそうね」
イーブンは笑いながらベンジャミンが置いていった書類を纏める。
「じゃあ、私はこれを提出してくるよ」
そして部屋を出ていった。
先ほどまで騒がしかった部屋の中はアードラとオッドの二人だけになり一気に静まり返った。
「ただ、ベンジャミンさんの言うことも一理ありますよ」
不意にオッドが呟く。
「どこが?」
アードラは机に寝転びながら聞き返した。
「私は四番小隊が手に入れた情報を公安委員会に渡すことに一抹の不安があります。その点はベンジャミンさんと同じですね」
オッドはアードラが散らかした玩具を片付けている。その姿はまるで母親のようだ。
一方でアードラは天井を見上げながらペロペロキャンディを舐める。こちらもまさに子供のようだった。
「どうして?」
片付けを終えたオッドはアードラのペロペロキャンディを取り、彼を優しく起こす。
そして自分も机に座り、その艶やかな太ももにアードラの頭を乗せた。
膝枕の状態になってから、アードラにペロペロキャンディを返す。
「公安委員会はシャロンと繋がっていますよ。危険じゃありませんか?」
「あぁ~そういうことか」
アードラは笑顔でオッドを見上げた。
オッドは微笑みで返す。
「僕はね、シャロンの研究とやらに支持することにしたんだ」
アードラの発言に対して、オッドは顔色一つ変えない。
「それはどうしてですか?」
アードラはスーツの上からオッドの胸を触る。オッドは拒否すらせずそれを受け入れた。
「シャロンの研究に興味が湧いた、からかな。成功しても失敗しても僕に痛手はないからね。成功すればこの国の貴重な財産になる。そう考えたんだ。だからこのまま放置することにしたんだよ。そしてある程度彼女に利する行為も黙認することにしたんだ。ダメかい?」
「いえ。じゃあ公安委員会の情報が漏れることも承知で?」
「まぁね。公安委員会第二支部の支部長、ロドリゲスとシャロンが昵懇なのはわかりきっていることだし。公安委員会にしてはそこらへんが杜撰だね。きっと裏があるんだろうけど一々調べるのも面倒だし無駄。まぁ、謀略は他の人間に任せるよ。僕の仕事じゃあない」
アードラはオッドの胸から手を放し次は太ももを擦る。
オッドは慈愛に満ちた目でそれを放置した。さらに右手でアードラの頭を撫でる。
「危険はありませんか?」
「危険? 大丈夫だよ。僕がいるんだから。いざとなったら僕が打って出る。それで十分だろ」
アードラの自信に満ちた瞳はその言葉が嘘ではないと信じさせてくれる力があった。
オッドはその瞳を見つめニッコリと笑う。
「ただ……このまま放っておくのも甞められているみたいで癪なのは事実だね」
アードラから殺意が漏れた。
オッドの手が止まる。
アードラはペロペロキャンディを咥えたまま勢いよく立ち上がった。
「ちょっと会ってみたいね。シャロンの実験動物……アイガとやらに」
「総司令という立場にいる方が一介の学徒に、しかも異邦人に会うのは難しいですよ」
オッドは机から立ち上がり、スーツの皺を正す。
「僕が会いたいって言っているのに?」
アードラは咥えていたペロペロキャンディを噛み砕いた。破片が部屋一体に散らばる。同時に途方もない殺気が広がった。
空気が歪むほどの高密度の殺気に先ほどまで冷静だったオッドの背中にじんわりと冷汗が滲む。
「善処します」
その言葉を聞いてアードラの殺意が消えた。
「ごめんね、我儘言って」
アードラはこの上なく無邪気な笑顔だった。
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