第210話 夏の訪れ-ジュリアの後悔

 ジュリアは床に落ちていたあの長方形の物体を拾う。


「これは『可笑しなお菓子クレイジー・キャンディ』を常習した人間が触ると高熱になる魔法具なんだ。これでアイガ君が触ったときに反応したから私はやっぱりアイガ君が常習犯だと思ってしまったの……」


 ジュリアは、その華奢な手に持つ長方形の物体を説明してくれた。

 

 成程、そういうことだったのか。

 俺はその魔法具を見つめる。


「実は……」


 俺はジュリアに近づいた。

 ジュリアは少しだけたじろいだが、その場に止まってくれる。


「この施設に入る前……ここら一帯を覆う柵にあった看板で右手の人差し指を切ってしまったんだ。今は……その……この姿だからわからないと思うけど……その傷にその魔法具の角がぶつかってつい放してしまったんだ。すまない、勘違いさせてしまった」


 そうだ、これは不運が重なってしまった事故だ。

 いや、不運は防げた。


 俺が招いた失態だ。


 不意にジュリアの足元に水滴が落ちる。幾つも、幾つも。

 俺はその水を辿った。


 涙だ。

 ジュリアは嗚咽混じりに号泣していた。


「う……う……ごめんなさい……そうだった……のね……ごめんなさい……私、取返しのつかないことをしちゃった……うぅぅぅ……うわぁぁああん」


 大粒の涙を流すジュリア。

 俺は何もできず……狼狽えることしかできなかった。

 

「いや、誤解が解けたならそれでいいし……俺は別に気にしていないよ」

「うぅぅぅ……うぅぅぅ……」


 しかしジュリアは泣き止んでくれない。

 俺は何もできず、彼女が泣き止んでくれるのを待つほかなかった。


「ぐすん……ぐすん……ごめんなさい……」


 暫くしてジュリアは落ち着いたようだ。

 まだ涙声だが俺は少し安堵する。


「そうだよね……ちゃんとアイガ君の話を聞けばよかったのに……常習者の言い訳を聞きたくないって……友達からそんな言葉聞きたくないって……耳を塞いじゃった。これじゃあ……医師失格だ……」


 泣き腫らした瞳で、蒼褪めた表情で、ジュリアは懺悔のように言葉を吐いた。


「そんなことはないよ」


 俺の言葉にジュリアは下を向いたままだった。


「俺がイレギュラーすぎたんだ。ジュリアは悪くない。俺がちゃんと説明すればよかったのに……この姿を見せたくないからと、そんな我儘で君を追い込んでしまった。だからジュリアは悪くない。医師失格なんかじゃない。少なくても俺は、ジュリアは医師になるべき人間だと思っている」

「アイガ君……」


 ジュリアの視線がやっと俺の方を向いてくれた。


「だって、ジュリアは俺が薬物中毒者だと思って本気で立ち向かってくれたんだろ。悲しみを押し殺して。医師としての本懐に従ったんだ。それだけで立派だよ」

「アイガ君……ありがとう」


 ジュリアは鼻を啜りながら俺を見つめる。また彼女の頬を涙が伝った。


「悪いのは俺だ。俺が君を追い込んだ」

「違うよ。私が悪いんだ。アイガ君みたいに優しい人に私はセルケトの毒を向けてしまった……アイガ君を信じられなかった……悪いのは……私だよ……」


 ジュリアの涙がまた零れていく。それこそ滝のように。


「どう償えばいいのか……本当にごめんなさい、アイガ君。誤ってすむことじゃない……」

「じゃあ、トントンってことにしよう。二人とも悪い。それでいいじゃないか」


 俺はジュリアの言葉を遮った。

 ジュリアは涙を拭いながら俺を見つめる。そしてぎこちなく笑った。


「ありがとう、アイガ君」


 やっと笑顔になってくれた。例えそれが無理矢理作った偽りの笑顔だとしても俺は嬉しかった。

 ホッと胸を撫でおろす。


 やはり女の子が泣いているのは辛いんだ。

 例え傲慢と言われようともそこだけは譲れない。


 ジュリアは二、三度深呼吸をする。自身の感情を落ち着かせているようだ。

 鼻を啜り、涙を拭って、真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。


 いつものジュリアの貌だ。


 さて……次は俺の番か。

 俺もジュリアに倣って深呼吸をした。


「俺のこの姿だが……」


 俺は迷っていた。

 話すべきか。また、話すべきか。


「いいよ」


 ジュリアは優しく微笑んだ。


「無理に言わなくてもいいよ。きっと……言いたくないんでしょ。顔にそう書いてあるもの」

「この顔にか?」

「ふふふ、そっちの顔もタイプだよ」

「ハハハ、おべっかでも嬉しいよ、ありがとう」


 俺とジュリアは二人で笑いあった。

 やっと心から笑えたような気がする。


「とりあえず……今説明できることだけ説明するよ」


 肚は決まった。

 俺は獣化液の注射器をジュリアに渡した。


「調べてもらって構わない。『可笑しなお菓子』なんてクスリじゃないはずだから」


 獣化液は覚醒剤の類ではない。はずだ。

 シャロンからは何も言われていないが。


 これまでこの注射を打って中毒になるようなことはなかった。が、気分がハイになることはあった。

 それは獣王武人に変化した際の高揚感からくるものだと思っていたが。


 ただ、シャロンが覚醒剤混じりの怪しいものを俺に渡すとは思えない。

 あの女はそう簡単に自分の尻尾を他人に見せたりはしない。俺に渡す以上、獣化液を他人に奪われる、調べられるなどの対策をしていないわけがない。

 そういう意味では信頼できる。


 ジュリアは注射器の中に残っている液体を自分の指先に着けた。

 注射器付き手袋インジェクション・グローブの中の毒を少量出し、その液体に混ぜる。


 ジュリアはその混ざった液体を注意深く観察していた。


「うん。覚醒剤の反応はないみたい。でもなんだろうこれ? 私にも判別できない何かがあるわ」


 ジュリアは不思議そうに獣化液の注射器を眺めている。


「覚醒剤とはいえないけれど、医師の端くれとしては、これをあまり体内に投与するのはお勧めできないわね」


 そう言いながら注射器を返してくれた。

 

「俺もそう思う」


 注射器の中身はもうない。一度変身するのにこの中身全てを使うからだ。

 注射器自体は俺の部屋に幾つかストックがある。それらが無くなればその都度シャロンに言えば新しいものを渡される手はずになっていた。

 中身も何が入っていて、どういう副作用があるのか、俺は知らない。

 知っていることは……


「こいつを打ち込むことで俺の体内にある獣化細胞が刺激されるんだ。それによって獣化細胞が目覚め、俺はこの化け物の姿になる。獣王武人っていう……技術なのかな……」

「細胞? え? その姿は魔法じゃないの?」


 ジュリアの顔が蒼褪めた。

 そうか、彼女はこの姿を魔法による変異だと思っていたのか。あの獣化液は呼び水だと。

 まぁ呼び水でもあっているか。ただ、内容が違うだけだ。


「これは魔法じゃない」


 ジュリアは俺の手を取った。

 獣人と化した俺の手を。


「魔法じゃないなら……それに細胞って……」


 ジュリアの顔が困惑に変わる。その瞳には再び涙が溢れそうになっていた。


 俺はもう一度覚悟を決める。

 深く、深く、息を吸った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る