第208話 夏の訪れ-ジュリアの覚悟

 悲痛な叫びに似た祝詞と共に彼女の背後にセルケトが現れた。


 巨躯を誇る蠍の幻獣は鋏をカチカチ鳴らしている。威嚇だろうか。

 尾の部分は女性になっている。何度見てもやはり不気味だ。

 その女性の部分が俺を睨んでいた。

 その相貌に目はない。が、なくてもわかる。それほど強烈な気配を放っていたのだ。


 臨戦態勢は十分というわけか。


「待ってくれ! ジュリア! これはどういうことだ!?」


 俺は再度説明を求める。

 しかし、ジュリアは涙を流して俺を睨むだけだった。


 彼女の右手にあるのは契約武器ミディエーションである注射器付き手袋インジェクション・グローブ。猛毒を相手に撃つ恐るべき武器だ。

 その手袋に付属されている注射器の液体が小さく唸る。


「『毒ヲ準備テイスティング』……」


 マズい。

 ジュリアは本気だ。


 彼女は毒の魔法使い。

 俺との相性は最悪。


 そもそも俺は魔法使いと戦うには不利だ。

 まず魔法が使えない。

 それを氣術で補っているに過ぎない。


 故に格上の魔法使い相手には為す術なく敗北ける。悔しいことだが。


 俺が学園に来てから闘った格上の相手はパーシヴァル先生やデイジー教諭のような戦闘狂に近い人間ばかり。

 だからだろうか、接近戦になることが多かった。


 それ以外の遠距離で戦うオーソドックスなタイプの魔法使い、若しくは魔獣には獣王武人で対処してきた。

 獣王武人なら無理矢理接近戦にすることができるからだ。


 しかし、今回はそれすら危うい。

 ジュリアは完全な遠距離型の魔法使い。加えて、俺の氣と似た特性の毒魔法を使う。

 一撃でも当たれば大打撃。


 魔人の証明と氣術を用いて受け身に徹するのは愚策。

 当たった瞬間に終わるのだから。


 回避しかない。

 だが、一流のジュリア相手に回避を続けられるか?


 もっと言えば、獣王武人を使ったとしてもジュリアの毒魔法を防げるかは甚だ疑問だ。

 炎や氷とは違う。


 ランチャー・ベア・ワイルド戦を見るに、あの毒は皮膚からも侵入する。そうなると獣王武人でパワーアップした身体ですら楽観視はできない。


「ジュリア!」


 思考の網から出た時、ジュリアの小指が俺を指していた。それは西部劇で銃を突き付けられているような緊張があった。


 ヤバイ!


 あれがくる。

 超級魔獣を苦しめたあの猛毒が……


「『毒ヲ吟味デカンタージュ』! 『耽美ノ毒ミュスカデ』!」


 濃い緑色の毒の塊が浮遊した。それが一気に放たれる。


 俺は咄嗟に避けた。

 背後の床に毒が着弾する。


 湯気のような煙が浮かんだ。

 床が仄かに溶けている。


「本気か? ジュリア……」

「えぇ」


 ジュリアはまた小指をこちらに向けた。


 殺意はない。

 だが、怒気は感じる。それに悲哀も。

 

 サリーの時とは違った。

 迷いはあるが、確実に俺を仕留めようとしている気がする。


 また、サリーの時は言葉で説得できるチャンスがあった。

 ところがジュリアにはそれがない。


 まさに問答無用。


 攻撃の仕様もサリーの時とは違いすぎる。

 金属の攻撃ならまだ対策ができた。

 氣術での防御も可能だ。が、毒となるとやはり難しい。


 ダメだ。


 どう足掻いても、ここを無事に切り抜ける策が思いつかない。


「『耽美ノ毒ミュスカデ』!」


 また射出される猛毒の塊。

 俺はまた避けようと足に力を入れる。


 その時、


「散!」


 ジュリアが叫んだ。

 瞬間、毒の塊が俺の眼前で弾ける。


 猛毒の雨が俺の肉体に迫った。が、寸でのところで防御が間に合う。


 俺は瞬時に上着を脱ぎ、猛毒の液体を払ったのだ。

 饐えた匂いが広がる。


 俺は後ろに跳び、距離を取った。毒に塗れた上着は捨てて。

 ランチャー・ベア・ワイルドとの戦いで、ジュリアは直弾の寸前に毒をわざと爆発させ、猛毒を浴びせる戦法を取っていた。

 それを見て居なければ今の毒を確実に浴びていただろう。


 いつか、その攻撃がくると思って用意していたのが幸いした。


 冷汗が流れる。

 呼吸も浅く早くなる。


「ジュリア……」


 戦うしかないのか……


「アイガ君。避けないで。苦しいのは最初だけだから」


 涙と嗚咽交じりのジュリアの声が響く。


 本当にわからない。

 あのような感情で戦う者を俺は知らない。


 出口はジュリアの背後うしろにある。

 逃げるには正面突破しかない。

 しかし、それにはジュリアの毒を浴びる可能性があった。

 

 炎や氷なら我慢で何とかなる。まぁ比較的可能性が高い程度だが。

 だが毒は違う。


 神経毒ならこちらの意思とは無関係にその場で蹲って終わりだ。

 恐らくジュリアは神経毒も作れるはず。


 どう考えても……答えは一つしかない……

 戦う、か。


 俺は構える。

 心の最奥にある何かが烈しく唸った。それは啼くに近しい感情の迸りだ。


 俺はそれを飲み込んで覚悟を決めた。


「しゃあ!」


 そして走る。

 せめて怪我はさせないように、そう思いながら。


「な?」


 意気込んで走ったものの、突如として転ぶ俺。

 足が縺れたのだ。

 

 なぜ?


 困惑の渦が押し寄せるが、俺はすぐに己の足を見た。


 軽く痙攣していた。この所為で走れなかったのか。

 今も足は痺れ、感覚が徐々に失われている。


 馬鹿な! これじゃあまるで毒を受けたみたいじゃないか! だが俺は毒の攻撃を受けて……


 匂い!


 俺は最初に毒が当たった床を見た。

 そこにはまだ湯気のような煙が揺蕩っている。


 それに……至近距離で受けた上着に着弾した毒からも匂いはあった。


「気付いた?」


 ジュリアの声が無慈悲に響く。


「ま……さか……この……ニオい?」


 呂律が怪しくなっていた。

 完全に毒を受けている。


「そうよ。耽美ノ毒ミュスカデの真価はその匂いにあるの。この匂いを吸うと人体が麻痺するわ。勿論私には効かない。私の魔法だから」


 しまった……

 魔法だから受けなければいいと思い込んでいた。


 そうだ。相手は毒使い。

 こういうパターンも想定しておくべきだった。


「くぅ……」


 微かに苦しい。

 言葉が紡げない。

 視界もぼやけてきた。


 こうなったら……


 俺はズボンのポケットに手を入れる。


「させない! 毒魔法! 『地手毒律ポイズン・アーム』!」


 必死の思いで獣化液を取り出すと同時にジュリアの足元から紫色の液体が飛び出した。

 見るからに猛毒だ。

 その猛毒が凄まじいスピードで俺に迫る。

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