第205話 不死鳥花-その二十(裏)

 宵闇の中、朧月が妖しく微笑む。

 星明りが照明の如く降り注いでいた。が、その光は淡く弱々しい。

 夜の帳が下りたそこは最早、伏魔殿の如し。


 舞台はとある部屋だ。そこは暗い。

 薄らとした光しかないためだ。


 だが、それ以上に重い。

 空気が、雰囲気が、重いのだ。

 それでいて粘り気がある。まるでコールタールのように。


 加えて、言いようのない緊張感が走っていた。


 ディアレス学園学長室。

 それが部屋の正体だ。

 

 座すのは勿論、シャロン・ウィンストン。

 ディアレス学園の学園長である。


 重厚で瀟洒な机に座り、気品を醸し出しながら佇んでいた。

 机の上の紅茶を一口飲む姿からも溢れんばかりの品位が感じられる。

 それなのに何故か、仄かに畏怖が混じっていた。

 それが不協和音となって部屋に響き渡っている。


 当の本人はそんなことお構いなしといった具合で、眼前に置かれた書類を読んでいた。時折、笑い声を漏らしながら。


「ふふふ、そう、獣王武人は使わなかったのね」


 指をパチンと鳴らす。

 瞬間、彼女の手に合った書類が消え失せた。


 シャロンはまた紅茶を一口飲む。部屋の中にはその紅茶の匂いが漂っていた。ジャスミンのような強い匂いだ。


「折角、生贄を用意したのに……流石にクレアさんとジュリアさんがいたら足りなかったかしら」


 シャロンは立ち上がり、窓の外を見る。

 そこから見える景色は黒い絵の具をぶちまけたかのように真っ暗だった。

 星明りもいつの間にか雲に隠れ、辺り一帯に深淵が広がっている。


「さてさて、貴方はどこまでその意地を張り続けられるのでしょうか……ねぇ? アイガ……」


 不意に邪悪な気が漏れた。

 窓が震え、その振動が伝わって外にもそれが溢れる。


 瞬間、眠っていた鳥たちが悲鳴に近い鳴き声を奏でながら夜空に羽搏いていった。

 けたたましい喧噪の中、シャロンは薄ら笑いを浮かべたまま椅子に座る。


 数秒置いて、


 「貴方も召し上がったら? すっかり冷めてしまっているわよ。新しいのをお入れしましょうか?」


 そうシャロンは眼前に立つ人物に問うた。


 その人物は学長室の壁の前に直立不動で立っている。

 壁に凭れもせず、左右に揺れることすらない。まるで彫刻のようだった。


「いえ、結構です」


 綺麗な声が響いた。


 不意に雲が動く。月明かりがまた部屋に届いた。

 その光によってその人物が浮かび上がる。


 そこにいたのは……


 アマンダだった。

 王都護衛部隊ロイヤル・クルセイダーズ五番小隊副隊長アマンダ・スタンフィールドだ。


 アマンダは視線を中空に漂わせ、憮然としていた。その姿は軍人というに相応しい。


「そうですか。それは残念。せめてお座りになったらどうですか? 立ちっぱなしは疲れるでしょう」

「いえ、お気になさらず」


 アマンダは表情を変えない。


 シャロンは軽く溜息を漏らして、紅茶を飲みほした。

 新しい紅茶をカップに注ぐ。

 今度は柑橘の匂いが部屋に広がった。遅れて湯気がふわりと揺蕩う。


「それにしても、ロベルトさんは詳細に報告してくれますね。ありがたいです。それに、手も出していない。まさに理想的ですね。シャロンが感謝していたとお伝えください」

「ありがとうございます。本人も喜ぶと思います」


 アマンダは未だ表情を変えない。声色も変化していなかった。


 一方でシャロンは天井を見上げた。その瞳が鈍く輝く。


「ふふふ……子飼い……ですか……」

「子飼い?」


 その言葉にアマンダの表情が初めて変わった。そこには微かに戸惑いの色がある。

 シャロンはその貌を見て笑いながら軽く右手を振った。


「あぁ違いますよ。気に障ったならごめんなさい。アイガがここを発つ前に私に言ったんですよ。お前なら子飼いの人間を引率につけられるんじゃないかって。それを思い出しただけです」


 アマンダは表情を戻す。そこにはもう何の色もなかった。


「まぁ、まだ十五の子供。世間を知らないのでしょう。まさか、五番小隊と私が蜜月だなんて……考えが及ばない。可愛いものです。」


 シャロンは笑う。優雅に、美しく口元を隠して。

 アマンダは依然として憮然としていた。


「まぁ、自分が信頼する人間が隊長を務めている部隊から引率者を出したのです。疑うほうが難しいですね」


 シャロンは笑ったままだ。

 しかし、その眼は笑っていない。そこにある感情は分からない。が、凍えるようなナニカを纏っていた。


「失礼しました。この年になると小さなことでも大笑いしてしまってね。難儀なものです。さて、本題に入りましょうか、アマンダさん」


 自身の名前を呼ばれ、アマンダの表情が一層引き締まる。

 空気もガラリと変わった。


「五番小隊の方々にはこれからも助力を仰ぐことがあるでしょう。その辺りは大丈夫ですか?」

「問題ありません。ロベルトをはじめ、貴方のために動く兵隊は数多く用意できています。無論、秘密裏に」


 その答えを聞いてシャロンは紅茶を一口飲む。もう笑みは消えていた。


「それを聞いて安心しました。ただ一つ懸念事項が……」

「兄ですか?」


 シャロンが言い終えるよりも先にアマンダが答える。


「えぇ。昔から彼は自由人でしたが……ここまでとは思いませんでした。傍若無人……というのは言い過ぎですが分を弁えてほしい、というのが本音ですね。この前の引率を自分がすると言い出した時などは流石に私も驚きましたから」


 アマンダの表情が一気に変わった。先ほど以上に、わかりやすい。

 怒りと、申し訳なさと、恥ずかしさがそこにはあった。


「本当に申し訳ありません。あれの行動が読めず……あれは……その……醜態を晒すことに躊躇がない人間ですから。そもそも前回も目当てはデイジーさんのようですし……ただ、もうあのような失態は犯しません。今度こそあれをしっかり監視します」


 並々ならぬ決意が感じられた。その貌は鬼を彷彿とするような覚悟に染まっている。

 シャロンはその表情を見てニッコリと笑った。


「えぇお願いしますね。五番小隊は貴方で持っているようなものですから」


 シャロンは徐に立ち、アマンダの下に赴く。

 途端にアマンダの貌に緊張が浮かんだ。


 シャロンはそんなアマンダの手を取る。優しく、優しく、包み込むように。


「シャロンさん?」

「アマンダさん、貴方だけが頼りなのです。私には貴方しかいない。貴方しかいないんです。どうか……これからも私を助けてください。お願いします……お願いします……」


 シャロンの瞳から涙が一筋流れた。そして頭を垂れる。


「何をおっしゃいますか! 私が……私が! 王都護衛部隊に入れたのは偏にシャロンさんが助けてくれたからです。あの時の御恩は一生忘れません! だからこそ! 不肖アマンダ、身命を賭して貴方のために……この言葉に嘘はありません。貴方から受けた御恩のため……だから頭を上げてください。シャロンさん……」

 

 アマンダは子供のように泣きながら、慟哭に近い言葉を吐いて、シャロンの手を握り返した。

 大粒の涙が学長室の床を濡らす。


「ありがとうございます……アマンダさん……」


 シャロンはそう言いながら頭を垂れたままだ。

 彼女の涙もまた床を濡らしていく。


 だが、その涙の質はアマンダのそれとは大きくかけ離れていた。

 

 アマンダは知らない。

 今、シャロンが悪魔のように嗤っていることを。

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