第202話 不死鳥花-その十七
ランチャー・ベア・ワイルドの眼球がドロリと落ちた。
その後に続いて、黒い血と粘り気のある汚水が涙のように零れる。
口からは黒と赤の混じった血を吐き、噎せ返るような腐臭と死臭を醸し出していた。
そして、そのまま糸の切れた人形のように地に臥す。
その貌は仰々しくも安らかだ。
やっと、痛み、苦しみから解放された、そう思っているかのように。
最早脅威は感じられない。
ピクリとも動かないその体躯は間違いなく死に抱かれていた。
「斃したの?」
ジュリアが恐る恐るその屍を眺める。
「あぁ……」
俺は小さく呟いた。
同時に、死に絶えた魔獣の身体に触れる。
脈はない。
気配もない。
体温は冷え、肉は固くなっていく。
確実に死んでいた。
流石の超級魔獣も、度重なる猛毒に身体を蝕まれ限界だったのだろう。
そこに氣が追い打ちを掛け、身体の耐久値を削っていった。
最後に俺の『霆』擬きが、その弱り切った臓腑を粉砕したようだ。
微弱な霆ではあったが、最低限の力は発揮してくれたらしい。
轟音をかき鳴らすことも、稲光を煌めかせることもなく、それでも霆は魔獣の身を屠った。
俺は己の拳を見つめる。
秘奥義は失敗に終わった。
しかし……
兆しはあった。
使えないと思っていた秘奥義が漠然と……朧気ながらその輪郭が現れたのだ。
心の深奥より喜びが溢れる。
それに呼応してか俺の身体は小刻みに震えていた。
『霆』。
その名前の如く霆が俺の脳裏を走った。
この閃きが形を成せば、俺はもう一段階強くなれる。
確信に近いその直感に俺は歓喜した。爆ぜるように。
声に出して笑わなかっただけ褒めてほしい。
俺はきっと今、満面の笑みだっただろう。
「あ……アイガ君? 大丈夫?」
ジュリアが心配そうに俺に声をかけてきた。
気でも触れたのかと思われたのかもしれない。
ただ、心に溢れる喜びの感情の奔走はもう俺自身にも止められなかった。
「ジュリア! ありがとう!」
俺はついジュリアに抱き着いてしまう。
「え? え? え?」
ジュリアの戸惑う声が聞こえた。
「君のお陰だ! 魔獣も斃せたし! 何より新しい発見があった! ありがとう! 俺はもっと強くなれる!」
苦くなった現実がまた甘美な幻想に戻る。
それに酔い痴れたのか、俺の脳は浮かれたままだ。
不意に香るジュリアの香水のいい匂いがその浮ついた脳にブーストを掛ける。
加えて、先ほど抱き着いたときのジュリアの柔らかい感触が遅れて伝わってきた。
「え……と……え?」
ジュリアは一層困惑し、顔を赤らめている。
漸く塵埃ほどの冷静さが戻ってきたが、まだ俺は歓喜の渦の中にいた。
ジュリアの手を握ってその場で小躍りするほどに。
気持ちが高ぶって自分でも止められなかったのだ。
暫しの間、ジュリアは俺の狂喜乱舞に付き合ってくれた。
そして、
「まぁ、アイガ君のお陰で勝てたし……喜んでくれるなら……良かったわ」
にっこりと笑うジュリア。
さっきも見た看護師のような慈愛に満ちた笑みだった。
「それに積極的な男の子……私、好きだよ」
笑顔の形が変わった、そんな気がした。
慈愛が徐に無邪気な、小悪魔を彷彿とさせる悪戯な笑みに変わったような気がしたのだ。
それはどこか含みのある、彼女の魔法にちなんで言うならどこか毒のあるような笑みだった。
「でもね、多分……この状況……アイガ君的にはマズいんじゃないかな」
ジュリアの右手が山道の上を指す。
いつの間にか、彼女の右手にあった契約武器のインジェクション・グローブは消えていた。
合わせてセルケトもいなくなっている。
当惑しながら俺はジュリアの指す方向を見た。
「あ……」
絶望がそこにあった。
クレアが火口から上がり、こちらを見ていたのだ。
腕を組み、仁王立ちで、こちらを睥睨するその姿に俺はなぜか不動明王を思い描いた。
クレアの瞳は真っ黒で怒りの炎が渦巻いている。人を焼き殺しそうな烈しい怒りがその瞳に宿っていた。
剰え、その背中からはここら一帯の火山地帯すらも飲み込んでしまうほどの炎がユラユラと燃えている。
これはきっと幻想じゃない……はずだ。
急激に喉が渇いていく。背中に汗が滝のように流れる。視界がグニャリと歪む。
これは……純然たる恐怖だ。
「ク……クレア……」
「何をしているの? アイガ?」
全く抑揚のない声だった。
殺意だけがヒリヒリと肌を焼く。
先ほどまで死闘を繰り広げたランチャー・ベア・ワイルドより凄まじい殺意だ。
そして今まで戦ったどの魔獣より怖い。
「いや、その! これは……」
言葉が上手く紡げない。
一手でも、間違えれば殺される。
そう思うと余計に言葉が出てこなかった。
クレアは一瞬ニッコリと笑った。
あ、終わった。
一手どころじゃない。もう詰んでいたのだ。
そう思った時、クレアが高らかに跳んだ。
俺がジュリアを襲うランチャー・ベア・ワイルドに近づいた時のように、下り坂を利用してクレアが猛スピードでこちらへ飛来する。
魔法の加速も手伝ってか、その速度は俺の比じゃない。
「え!? え?」
戸惑う俺の前にクレアが一瞬で降り立つ。
「クレア? ひぃ!」
クレアと目が合った。
全てを焼き払うような業火が、裂帛の気と共に、そして怒りを混ぜて俺に襲い掛かる。
「待て! クレア! 話せばわかる!」
俺の言葉はクレアに届いていなかった。
既に彼女のモーションは終わっている。
クレアの右手が固く握られているのだ。
「アイガぁ!」
「へぶぅ!」
強烈なグーパンチが俺の右頬を穿った。
脳天を貫くような痛みが走る。
あれ?
ランチャー・ベア・ワイルドより強くない?
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