第201話 不死鳥花-その十六
「しゃがんで!」
ジュリアの言葉を受け、俺は即座にしゃがむ。
彼女が何をするのか、考えたのはその後だった。
俺は地面に手をついてから、ジュリアの方を振り向く。
彼女の親指の先には青い液体が球体となって浮いていた。
新しい毒だ。
「『
それが猛スピードで射出される。
猛毒による激痛、体験したことのない氣、それらに耐えきったランチャー・ベア・ワイルドも流石に新たな毒を前にして、その汚い口を閉じた。血反吐と涎が閉じた口から僅かに零れる。
魔獣は距離を採るために勢いよく後ろに跳んだ。
俺を殺す絶好のチャンスだったが、それよりも毒への恐怖心が勝ったようだ。
その目は怯懦の色に染まっている。
その証拠に後ろに下がってなお、魔獣は両腕で己の顔面をガードした。それほどに毒を恐れているのだろう。
しかし、そのガードの上から毒の塊がランチャー・ベア・ワイルドに直撃した。
瞬間、酸っぱい匂いが広がる。
「ぎゃあああ!!」
断末魔のような叫びと共にランチャー・ベア・ワイルドが天を仰いだ。
毒がその身に刻まれた傷口から入ったのだろう。必死の抵抗は無意味だった。
それでも、魔獣の瞳は狂気を孕んでいる。
憎悪が、怒気と殺意とブレンドされていくようだった。
俺たちを睨み、殺そうと一歩踏み出す。が、突然ランチャー・ベア・ワイルドの全身から血が爆ぜた。
まるで爆発だ。
それは俺の氣の爆発とは違う。
氣特有の黒い血が流れていない。
似て非なる爆発だった。
その爆発によってランチャー・ベア・ワイルドの動きは止まる。宛ら銅像のように。
「『
ジュリアが溜息交じりに呟いた。
「ごめんね、アイガ君。今、止めの毒を打ち込んだわ」
「止めの毒?」
俺は立ち上がりながら聞き返す。
「『
なんと、毒魔法はそうしたこともできるのか。
確かに昔、毒虫に刺された時などその部位が赤く腫れ、熱を持っていたことがある。最悪高熱が出て苦しんだものだ。
それに近いことが起きているのだろうか。
魔法に疎い俺ではそれが精一杯の理解だった。
「ごめんなさい、私が油断したから。こんな怪我まで負わせちゃった」
ジュリアは血が流れる俺の右肩を摩る。
「こんなの掠り傷だよ、大丈夫、大丈夫」
笑顔の俺を他所にジュリアの貌は悲壮だった。
別段、この程度の傷、怪我に入らないのだが。
女性が悲しむ顔を見るのは辛い。
どうしようか、そう思っていた時。
「ぎしゃぁぁぁあああ!!」
不意にランチャー・ベア・ワイルドが吠えた。
腐っても、超級魔獣といったことか。
「嘘!? まだ動けるの!」
俺は構える。
こうなれば獣王武人で仕留めるしかない。
俺は覚悟を決める。右手をポケットに入れた。
しかし、その刹那……
「ぐぎゅううう!!」
ランチャー・ベア・ワイルドが黒い血反吐を吐く。
これは……
そうか!
ジュリアの毒魔法によって生み出された毒が、魔獣の体内で別の毒魔法になった。
つまり、新しい魔法がこいつの中で生まれたのだ。
その魔法の魔素に反応して、減少し消えかかっていた俺の氣が……残氣が反応したのか!
これは言うなれば氣のバックドラフト現象。
密室で炎が消えかかっているときに扉を開けるなどして急に酸素が入り大爆発を引き起こすあの現象と同じ。
あれが氣で起きたのだ。
理論としては知っていた。
技としてもある。
だが、『残氣』などという、相手の体内にわざと氣を残すなんてことは獣王武人でも不可能だ。
これは偶発的な産物である。
偶々、消えかかっていた氣が新しい魔法に反応しただけ。
そして、これは僥倖。
「これなら……」
俺の脳にとある野望が生まれた。
宵月流秘奥義。
それは獣王武人の状態でなくては使えない。
瞬時に圧倒的な量まで氣を生成できる獣王武人でなければ技にならないのだ。
『
それらは莫大な氣によって技となる。
ただ、獣王武人でも使えない技が幾つかあった。理論だけが脳内にある虚しい技たちが。
それほど秘奥義とは難しいもの。
だが、ジュリアの魔法によって残氣が反応している今なら、あの技が使える。
しかもこの人間のまま。
これは実験だ。
もしかしたら上手くいかないかもしれない。いや、そっちの可能性のほうが高い。
それでも、俺は確かめずにはいられなかった。
秘奥義が撃てる。この姿のままで。
それは幻想だ。酔い痴れるほどに甘美な。
だからこそ、その甘美な幻想を味わいたくなった。むしゃぶりつくように。
俺は血反吐を吐くランチャー・ベア・ワイルドに向かって走る。
「アイガ君!」
後ろでジュリアの声が聞こえたが俺は構わず走った。その声はもう俺の脳には届いていない。
俺はきっとこの時嗤っていただろう。
先ほどのジュリアのように。
「宵月流! 秘奥義! 『
全身を駆動させ、地面を高らかに踏み拉き、身体を思い切り捻転させ、右腕を力強く開き、俺は懇親の掌底を放った。
相手を太鼓、己を
乾坤一擲の衝撃が俺の右手から駆け抜けていく。
『霆』は相手の中に残した氣に新たなに撃った氣を共鳴させ、その衝撃によって内部から破壊する秘奥義だ。
前提条件として相手の体内に氣を残すという離れ業をしておかなくてはならない。
そんなことは不可能だ。
だから『霆』自体が不可能な秘奥義だと思っていた。
それがこんな形で試せるとは。
俺は期待に胸を膨らませて打ち込んだ右手を一気に引いた。
氣がランチャー・ベア・ワイルドの中で弾けあう。
それこそ霆の如く。
雲の中で静電気がぶつかり合い、雷鳴が轟き、稲光を走らせ、形を成した霆が大地を穿つように。
「ぶぎゅ!」
ドン!
魔獣が黒い血反吐を撒き散らすと同時に低い音が木霊した。
「ちぃ……」
思ったより音が小さい。落胆からか、声が漏れた。
本来ならそれこそ雷鳴の如き轟音と共に、稲光の如き血飛沫が飛び散り、その身が霆に撃たれたか如く、爆ぜるはずだった。
しかし、残氣が少なかったためか、それとも撃ち込んだ氣が浅かったせいか、音は小さく、血飛沫もいつも通り。
それは霆の名を冠するにはあまりにも粗末なものだった。
秘奥義には成っていない。
悔しさが俺の中で渦巻く。幻想の期待値の高さがそのままカウンターのように俺の心を蝕んだ。
甘美な幻想が苦い現実へと変わっていく。
一方で黒い血に塗れた魔獣の目が俺を睨んだ。
その目は殺意どころか、もう輝きすら失っていた。
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