第165話 オリエンテーション 49
「あれ……」
ふと、私は気が付いた。
ハンマー・コングが二体とも動いていないことに。
絶好のチャンスだったはずだ。
ボートにぶつかったほうはもう起き上がっている。残った一体はずっと自由だった。
それなのに、襲ってこなかった。
それに、あのハンマー・コングの表情。
さきほどまでの余裕がない。
あの目は……恐怖?
貌は未だ殺意をばら撒く獰猛な魔獣の貌だ。
しかし、目だけはさっきまでの私の写し鏡のようだった。
恐怖だ。恐怖に飲まれた者の目をしていた。
恐れているんだ。
アイガ君という存在に。魔獣たちは。
たった一人の、私たちと同い年の、アイガ君を恐れている。
「アイガ君、大丈夫? もうあれ……使えないんでしょ」
ロビン君が不意に叫んだ。
アイガ君は向こうを向いたまま親指を立てて応える。
「あぁ。だが問題ねぇよ。
その瞬間、熱い、熱い風がアイガ君から吹き荒んだ。
アイガ君は一気に走り出す。
その背から吹き上がる色が私を魅了した。
あれは……
怒髪天の燃えるような緋色。
闘争心の絶えず煌めく紅蓮。
さらに真っ赤な……真っ赤な真紅。それが表すのは信念。絶対に曲げられない確固たる信念を持つ人だけ出せる稀有な色だ。
多種多様な赤が混ざらず、赤の色同士なのにはっきりとわかるほどそれらは輝いていた。
あんな色を出す人を私は見たことがない。
怒り、闘争心、信念……加えて……使命感、責任感、勇気、渇望、そうした感情が爆ぜるように溢れていた。
「丹田開放!」
アイガ君の身体がさらに引き締まる。さらに周囲の魔素が活性化した。その魔素が彼の体内に流れていく。
「丹田覚醒!」
アイガ君の背中に文字が浮き上がる。濃い青、群青色……藍色の湯気のようなものがアイガ君の身体を包み込んだ。
あれだ。
嘗て私がアイガ君から見た少し怖いなにか。
あれでトライデント・ボアやシャドー・エイプを斃したんだ。
確かにあの青い湯気のようなものは怖い。
でも今はこの上なく頼もしかった。
赤い感情の色と青い何かの湯気が混ざりあっていく。秀麗なコントラストとなっていく。それは見事な紫色へと昇華していった。
「はぁぁぁあああ!!」
アイガ君の咆哮に呼応して二体のハンマー・コングも動いた。でもその目は依然として怯えたままだ。
アイガ君は真正面から殴りかかる。
ハンマー・コングは怯えながら強烈な右のパンチを見舞った。怯えているとはいえ、その一撃は魔獣のもの。当たればそれで終わりだ。
竜巻のようなパンチがアイガ君の顔面に迫る。
「ひぃ!」
クラスメートの誰かが悲鳴を上げた。
それもそうだ。
あれが決まれば一発で肉塊になる。それも腐った果実のように砕けて、割れて、血塗れに。
私も目を閉じそうになった。
でも閉じるわけにはいかなかった。
愚かな私にはそんな小さな逃避すら許されない。そう思っていたから。
それに私たちの心配などただの杞憂だった。
何故ならアイガ君はパンチに当たらなかったから。彼はスライディングでその攻撃を見事に躱していた。
砂埃が遅れて舞う。
ハンマー・コングの間合いに入った。
「宵月流! 『
右の正拳がハンマー・コングのがら空きの腹部にヒットする。
アイガ君は続け様に素早く、左のパンチをハンマー・コングの背中に放った。
私は何が起きたのかわからない。
傍から見ればただの二連のパンチだ。
それなのに、ハンマー・コングは口から大量の血を吹き出して空を仰いだ。血は噴水の如く空に立ち昇り、魔獣自身の身体を染めていく。
その血は黒く変色していた。
邪悪だと思う。けれど、美しいとも思ってしまう。そんな色合いの血だった。
そして、アイガ君の右足が微かに暗い紫に輝く。
「せいや!」
その右足で強烈な廻し蹴りを撃った。
ハンマー・コングが崩れ落ちる。
膝をつき、血反吐をぶちまけるハンマー・コング。それを置いて、アイガ君は走った。
もう一体のハンマー・コング目掛けて。
狙われたハンマー・コングは左手を硬く握りしめた。その左で強烈なパンチを放つ。
単純な、単純なパンチだった。
「宵月流! 忌月!」
アイガ君はその攻撃をパンチで迎撃した。
ハンマー・コングが繰り出す左のパンチ。その手首らへんをアイガ君が殴ったのだ。それによってハンマー・コングの攻撃の軌道を変わる。
まるで手品だ。いや幻想のようだった。
あまりにも見事な動きで私はつい見惚れてしまう。
あんなことができるの?
魔法? 違う。アイガ君は魔法を使っていない。
パニックになりそうな自分を必死で押さえつけた。
パニックにはあとでなればいい。
今だけはしっかりとこの目でこの闘いを見なければならない。
私はそう思っていた。
アイガ君はそのまま右手でハンマー・コングの脇腹を穿つ。
汚い悲鳴が迸った。
アイガ君は気にせず、強烈な前蹴りをハンマー・コングに決める。
ハンマー・コングは前のめりに倒れてきた。
アイガ君はそれに合わせて跳ぶ。
両腕を高々と上げ、ハンマー・コングの頭部を掴んだ、
「宵月流! 変形型! 『
ゴォンと鐘を突くような音が木霊した。
凄絶なアイガ君の膝蹴りがハンマー・コングの顔面に決まった音だ。その貌は陥没していて血が止めどなく溢れていた。
その血もまた黒く変色している。
ハンマー・コングは地面に臥した。その顔面が砂に埋もれ、そこに黒い血が滲みだす。
アイガ君は着地すると同時に後ろへ向かって走り出した。
残る一体目掛けて。
標的にされたハンマー・コングの貌にもう獰猛さは残っていなかった。
完全に怯え、恐怖に飲まれた貌をしている。
「宵月流! 『心月震砲』!」
ドンと大きな音がした。アイガ君の右のパンチがハンマー・コングの胸の中心に決まったんだ。
ハンマー・コングは目を見開き、動きを止める。蝋人形のように、剥製のように、その場でピタリと止まってしまった。
アイガ君は即座に同じ動きでもう一度、今度は左手でハンマー・コングの胸を殴る。
「宵月流! 裏の型! 『堕獄双月』!」
次の瞬間、小さく何が弾けた音がした。
殴られたハンマー・コングは目、鼻、耳、口から血を流し、そのまま後ろに倒れた。
ハンマー・コングは動かない。ピクピクと蠢動するだけだ。
勝った……勝ったんだ!
アイガ君が!
アイガ君が勝ったんだ!
全員が言葉を失っていた。
生き残れた。
生きられた。
死ななかった。
そうした充足感が私たちから声を忘れさせたのだ。
歓喜が徐々に、徐々に、私たちの心に広がっていく。
そしてその感情が爆ぜる直前、アイガ君がこちらに振り向いた。
その視線はゴードン君に向いている。
そして右手を拳にして高らかに突き出した。
アイガ君は笑っている。
無邪気に笑うその姿は少年のように朗らかで目が眩むくらいに眩しかった。
ゴードン君も
その光景は気高く、神聖で、この上なく美しかった。
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