第164話 オリエンテーション 48

 海を裂くような轟音が響き渡る。


 私にはそれが救いのに聞こえた。

 都合の良い現実逃避? 恐怖からの倒錯? 希望に縋りついた結果の幻聴?


 わからない。

 ただただ私は怖かったんだ。


 どんな感情も目の前の現実には抗えない。だから本能が勝つ。

 今、私は死にたくないという気持ちでいっぱいだった。


 砂の魔法から解き放たれたハンマー・コングの一挙手一投足が怖い。その動き一つ一つが私たちの生殺与奪の権利を握っているのだから。


 でもゴードン君だけは違った。

 満身創痍の中、勇猛果敢にハンマー・コングを睨んでいる。


 魔獣は、それを見て嘲笑っていた。


 何がおかしいの? そんなにゴードン君がおかしいの?


 腹が立つ。悔しい。本当に。

 腸が煮えくり返るほど私は怒っていた。


 でもその激情を吐露することはない。

 余計なことをして目立ちたくないから。標的になりたくない。わかっている。自分が身勝手で愚かなことは。


 ただただ、死にたくないという本能には抗えなかった。

 そんな中、一体のハンマー・コングが咆哮を上げながら走り出す。


「あ……」


 声が出ない。

 悲鳴を上げそうになったけど、喉が潰れたのか声はでなかった。


 だけど恐怖が私を飲み込んだ。


 死が訪れる。

 もうだめだ。


 死ぬんだ。

 涙が溢れる。熱い、熱い。まるで魂そのものが泣いているようだった。


 ゴードン君は尚も立ち続ける。視線を外さず。虫の息なのに。

 その姿は尊厳に満ち溢れていた。


 迫りくるハンマー・コング。

 その距離があと少しとなったとき、ゴードン君は雄々しい雄叫びを上げ、動かない身体を鼓舞した。

 ハンマー・コングはその姿に怯みたじろぐ。


 あぁ、なんて凄い人なんだ。

 ゴードン君のその姿に私は心の底から尊敬した。憧憬もあった。これこそ貴族としてのあるべき姿だ。


 自分が決してなれない姿。届かない頂に立つ姿。それは本当に素晴らしい誉るべき姿だった。


 死んでほしくない。

 そして私も死にたくない。

 ……


 最後の最後まで私は恐怖に飲まれていた。

 愚鈍。

 それが私なんだ。


 その事実がまた私の目から涙を流させる。

 海鳴りの声がまた響いた。


 ん?

 海? 声?


 これは……

 声だ!


 私は海を眺めた。


 そこには……

 マジックボート?


 あれは確か、サリーさん、ロビン君、アイガ君が小島に渡った時に使ったものだ。


 あれ?


 マジックボードの脇に黒い何かがある。あれは……鎖?

 鎖が二本。それらボードの両脇にあった。まるで海に道路を敷いたかのようだ。その中をボードが猛スピードでこちらへ向かって走ってきている。


 うん?

 薄らと海面が凍っている?

 どういうことだろう?


 私にはわからない。

 そんな海面を奔るボート。乗っていたのは……


「アイガ君!」


 私が叫ぶとともにボードが飛んだ。

 本当に飛んだのだ。

 海面をジャンプして一気に私たちに向かって飛んできた。


「ぐぎゃ!」


 そしてそのままボードは迫りくるハンマー・コングにぶつかる。

 ぶつかったハンマー・コングは衝撃で後ろへ吹き飛んだ。


 私は呆気に取られる。私だけじゃない。その場にいた全員が呆気に取られていた。

 一秒にも満たない時間、それでも体感としては一分以上あったようにも思えたけど、その数瞬後、アイガ君が地面に着地した。


 それは希望の瞬間だったのかもしれない。

 心に蔓延っていた恐怖が、一瞬で掻き消えたのだから。

 どうしてかはわからない。

 だけど私は安堵していたんだ。


 アイガ君は小脇にロビン君を抱えていた。本当に荷物のように。

 そのまま地面にそっとロビン君を下ろす。それから辺りを見渡した。


 アイガ君は今、上半身裸だ。見事な筋肉が、その身に宿っている。彫刻のように陰影のはっきりとした筋肉は、まるで鎧のようでそれは噴火する直前の火山のように漲っていた。


 下は派手な布を腰に巻いている。

 水着じゃない。

 黄色と赤で幌のような布。あれは? パラソル? そんな布だった。


「大丈夫!?」


 アイガ君に気を取られている間にロビン君が私たちのところまで来ていた。


 ロビン君が来ると同時にゴードン君が膝をつく。

 全身から酷い汗が吹き出し、呼吸がさらに荒くなった。

 完全魔力喪失状態オーバー・ロストが悪化している。


 でも、ゴードン君の表情は穏やかだった。


「大丈夫か? ゴードン」


 アイガ君がゆっくりとこちらへ赴いてくる。優雅で優美な動きで。

 ゴードン君は答えない。荒い呼吸の音が響く。


「悪かったな。帰ってくるのが遅れちまったよ」


 アイガ君がゴードン君の肩に手を置いた。

 ゴードン君は一瞬笑う。


「すまん……あとは……頼む……」


 その声は微かに震えていて、今にも泣きそうな、泣き叫びそうな、そんな声色だった。

 きっとその言葉に込めた思いは私では理解できないほど、多くの感情が詰まっていたんだと思う。


「あぁ、任せろ。じゃあ……ゴードン、右手を出してくれ」

「?」


 言葉の意味がわからなかった。

 私も、エミリーもロビン君も、当のゴードン君も不思議そうな貌になっている。


「右手だよ、右手」


 アイガ君は右手を掲げた。

 ゴードン君は戸惑いながら同じように右手を挙げる。

 それを見たアイガ君はニッコリと笑ってその手を自分の右手で優しく叩いた。


「俺の世界じゃあこれで選手交代だ。ゴードン! お前の戦い! 俺が引き継ぐ! まだ寝るなよ……お前の戦いは続いているんだからな!」


 ゴードン君は涙を流しながら何か呟く。

 こんなに近くにいるのにその言葉は聞き取れない。


 だけどきっとそれはアイガ君には伝わったんだと思う。

 もう彼の貌は勇ましいものになっていたのだから。


 ただ、少し気になった。

 俺の世界?

 故郷の言い間違い? アイガ君の故郷は知らないけど……もしかしたら方言なのかな。


 そんなことを気にしている場合じゃないけど、なんとなく気になってしまった。


「ユーリさん」


 急にアイガ君に名前を呼ばれた。


「え?」


 ドキッとして声が裏返る。


「それにエミリーさんも……ゴードンを頼む」


 私とエミリーは「任せて」と同時に発した。

 それくらいしかできない。迷うことすら烏滸がましい。

 だから即答した。

 でも本当に何かしらの力になりたかった。


 さっきまで怯えていたのに、アイガ君が着た瞬間から私の中に使命感のようなものが沸き上がっていた。


 それが、私を突き動かす。

 エミリーもきっと同じはず。

 彼女の目にも煌めく光が灯っているのだから。


「さて……」


 アイガ君はゆっくりとハンマー・コングのほうへ向かって歩き出した。

 燃え盛る炎のような闘志をその目に宿して。

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