第116話 踊り子-その六
全ての懸念を忘れ、俺は走ることに注力した。
それ以外全てが邪魔だったのだ。
只管に、我武者羅に、走った。
そうして、やっと俺は馬車乗り場に辿り着く。
馬車乗り場はレクック・シティの北側の果てにあった。
「はぁはぁはぁはぁはぁ……」
近くに会った壁に手を置き、息を整える。
汗が地面に滴り落ちた。
まだ雨に濡れ切っていない地面が俺の汗を吸う。
筋肉が千切れそうだ。昂る筋肉を痛みと共に沈める。
失った体力を少しでも取り戻そうと身体が休みたいと訴えていた。
俺は数秒、回復に努める。
目が霞むが俺は眼前を瞠った。
先にあるのはのんびりとした馬たちと煙草を燻らせる車夫たちだ。
そこにあるひと際大きな馬車。その窓にミリアを見つけた。
間に合った。
歓喜が心と脳に去来する。
俺は再び走った。
だが、肺と筋肉はまだ休息を必要としていた。
肺は空気をもっと寄越せと欲し、筋肉は痙攣することで走ることを拒否した。
足が
泥水が跳ねてこの身を汚した。
自分が思う以上に限界を迎えていたらしい身体。その身体に鞭を撃ち俺は立ち上がる。
同時に雨が一気に降りだした。堰き止められていたダムが解放されるかのように。
急激に降り出した雨は土砂降りとなって周囲を穿つ。
俺の身体に纏わりつく泥と汗は一瞬で流されていった。
俺は大声でミリアの名を叫ぶ。
しかし、雨の音がそれを掻き消した。
のんびりしていた馬は雨水に濡れ身震いをし、慌てた車夫は急いで煙草を足で踏み消して馬車に乗り込む。
数秒も立たず馬が走り出した。
時間が来たのか? それとも雨を嫌って出立の時間を早めたのか?
俺にはわからない。
ただ、あと少し。
そのあと少しが間に合わなかった。
ミリアを乗せた馬車が動き出す。
俺は再び走った。
馬車までは恐らく十メートルほど。
それなのに、その十メートルが恐ろしく遠い。
疲れ果てた身体では追いつけない。
元々、人では馬に適わない。
さらに雨が地を濡らし、滑りやすくなった路面は踏ん張りがきかない。
全てが悪い方向へ向かっていた。
「くそ!」
俺は馬車を見送ることしかできなかった。
せめて一言。
謝らなければ。
それができないなんて。
諦念と後悔が俺を打ちのめす。
その時。
俺を呼ぶ声が聞こえた。
幻聴なのかもしれない。
だが、確かにその声が、彼女の声が聞こえたんだ。
俺は馬車を望む。
馬車の窓が開いていた。
そしてミリアがそこから飛び出し見事なアクロバティックで馬車の上に立った。
流石、サーカス団員だ。
雨の中を走る馬車の中から飛び出し、剰えその上に乗ったのだ。
彼女は両足が義足にも関わらず。
そして見事に一節、そこで踊って見せた。
降り頻る雨ですら彼女を讃える神の加護のようだった。
遠雷の音も光ですらも、全てが彼女を魅せるための演出に見えたのだ。
美しい。
その一言に尽きる。
その場にいた誰も彼もが彼女に釘付けになる。濡れることも厭わず。
雨の音も、馬車の音も、それ以外の喧騒も全てがその瞬間だけ消えた。
全てが彼女のためにある。そして彼女を賞賛している。
神ですらも拍手を送っていた。
そんな気がしたんだ。
踊り終えると彼女は濡れた髪をサッと掻き揚げ、ぺこりとお辞儀した。
天使のような笑顔で俺に手を振る。
そして彼女はまた見事な動きで馬車の中へと消えた。
たった数秒の演劇。
その数秒が俺を救う。
許しを得られた。
そう感じた。
雨に交じって俺の頬から涙が伝う。
俺はまた叫んだ。
彼女の名前と、そして謝罪を。
自然と頭を垂れていた。
届いたかどうかはわからない。
だが、俺の心はやっと雲が晴れていった。
今度、もし彼女と会える時があった時はちゃんと謝ろう。
そして彼女の踊りをもっと見たい。今度は彼女がいるサーカスで。
そう思った。
俺は地面に座り壁に凭れる。
冷たい雨の水が俺の身体を洗った。
身体から熱がなくなっていく。
俺は灰色の雲を俺は眺め続けた。
暫くして、雨の勢いは弱まる。
俺はビショビショに濡れたまま帰路に付いた。
レクック・シティを出て、一本道をボンヤリと歩いている。
肺は充分な空気を得て満足そうに躍動していた。筋肉に溜まった疲労は消え回復に向かっていた。
今、心は晴れている。
全てが心地よかった。
自然と笑みが零れる。
気が付けば寮は目前だ。
「アイガ君!」
ふと、俺を呼ぶ声がした。
ロビンだ。
俺の後ろに大きな黒い傘をさして、手には大事そうに分厚い本を抱えたロビンがいた。
「ロビンか。また図書館に行っていたのか?」
「うん。それより、アイガ君。ずぶ濡れだよ。大丈夫?」
「あぁ、傘を差さずに街まで言ったからな。結果こうなっちまったよ。まぁひとっ風呂浴びりゃ大丈夫だろうな」
俺は自嘲気味に笑ったが、ロビンの心配そうに俺を見る。
俺は話を逸らすためロビンが持つ本を眺めた。
「ほんと、ロビンは本の虫だな」
「まぁね」
ロビンは笑いながら持っていた本を見せてくれた。
分厚い本は高価そうな革製のカバーに覆われている。
きっと高名な著者が書いた有名な本なのだろう。
しかしロビンには申し訳ないが興味は然程もなかった。
「それにしても、アイガ君、また街に行っていたの? 昨日も行ってなかった?」
ロビンは俺がギルドの仕事を学校から斡旋してもらっていることを知らない。
別に秘密にすることでもないので折を見て話すつもりだ。
今回のミリアの件も。
だが今はまぁ……気分じゃない。
俺は適当に笑って誤魔化す。
「あ、わかった。あれでしょ。新しい服でも買いに行ってたんでしょ。それとも水着かな?」
ロビンは何か勘違いをしているようだった。
服はなんとなくわかるが、水着とは?
疑問符が頭に浮かぶ。
「水着?」
「あれ? 違った? もうすぐオリエンテーション合宿だからてっきり水着を買いに行ってたのかと思ったよ。何度も街に行くって気に入ったのが中々無かったのかな~って」
「オリエンテーション……合宿?」
聞いたことのない言葉につい俺は鸚鵡返ししてしまった。
「あれ? アイガ君知らない? 毎年一年生は五月の終わりに普通科と特別科合同でガイザード王国の南にあるウィー・ステラ島ってところで合宿するんだよ。ウィー・ステラ島ってリゾート地で有名なんだ。青い海に囲まれた自然豊かな場所さ」
なんと、そんなイベントがあるのか。俺は全く知らなかった。
「ん?」
不意に頭の中でロビンの言葉が高速で具現化される。
普通科、特別科、合同。リゾート地。青い海。だから水着。
突如、閃光が走る。
「普通科、特別科合同ってことは……クレアも来るのか?」
「え? そりゃ、そうだろうね。合同の合宿だもん」
俺は空を見上げた。
曇天の隙間から青空が太陽の光と共に顔を覗かせる。
俺は眩しく、熱い太陽に心から感謝した。
「水着……か……」
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