第185話 兄貴再登場
「兄貴!」
俺は外に出て兄貴に声を掛けた。
後ろから無言で圧を放つクレアがゆっくりと追ってくる。
俺はそれから半ば逃げるように駆けていた。
「おぉ! アイガか。昨日ぶり。それにクレアちゃんも」
兄貴は朗らかに手を振る。
流石、デリカシーがない人だ。クレアの放つ圧を物ともしていない。
まぁ、兄貴のことだ。昨日の置き土産のことなどきっと脳にはこれっぽちも記憶されていないのだろう。
「……どうも」
クレアは不機嫌を隠さず挨拶する。
しかし、その程度のことでは兄貴には届かない。
兄貴に『察する』などという高尚な感情があるわけないのだから。
「なんか失礼なことを考えていないか?」
兄貴に指摘されてドキッとした。
どうしてそういうことはわかるのに、クレアの感情の機微はわからないのだろうか。
「いえ、なにも」
やや棒読みになりながら言い訳をする。
兄貴は不審そうに俺を見ていた。
その時。
不意に兄貴の顔が満面の笑顔になり、俺たちを置いて走り出す。
「ん?」
走る兄貴を追うと、そこには……
デイジーがいた。
兄貴は見たこともない笑顔でデイジーの下へ走っていく。まるで新しい玩具の発売日に店に駆け込む子供のように。
「デイジー先輩!」
「ん? え……と……あぁ、これは、これは。アンドリュー隊長ではないですか。お久しぶりです」
デイジーは丁寧に頭を下げる。
その口ぶりからどうやら二人は顔見知りのようだ。
それにしても……顔見知りとはいえよく兄貴とわかったな。もしかしたら最近どこかで会っていたのかもしれない。
今の兄貴と昔の兄貴では容姿が変わりすぎなのだから。
「お久しぶりです。いや~デイジー先輩に会えて嬉しいですよ~相変わらずお元気そうで」
いつもと違う兄貴の姿に俺は少し戸惑う。
そういえば確か、デイジーも元王都護衛部隊にいたはずだ。
そのため二人が知り合いなのも頷ける。
デイジーも笑顔で兄貴と話していた。
「今度、うちの五番小隊がレクック・シティの常駐部隊になりまして。色んな場所にご挨拶させて頂いているんですよ」
「そうですか。アンドリュー隊長のいる部隊なら安心ですね」
「デイジー先輩、昔みたいにアンディでいいですよ。先輩から敬語を使われるのは変な気分です」
二人の会話から察するに、兄貴とデイジーの関係は先輩後輩なのか。
しかもデイジーの方が先輩と。
「いやはや……貴公は護衛部隊の隊長。一介の教師の私とでは立場が……」
そこまでデイジーが言うと兄貴はそっとデイジーの口に人差し指を添える。
「そういうの苦手なんです。昔みたいな関係で話しましょう。ね?」
デイジーは一瞬驚いたようだが、ニッコリと笑った。
「相変わらずだな。では、昔のように話すか」
「えぇ、お願いします」
二人にしかわからない柔和な空気が流れた。
「挨拶回りということだが、シャロン学長に会いに来たのか?」
「はい。でもそれはついでです」
兄貴の一言にデイジーの顔がぽかんとした。
「ついで?」
一方で兄貴の表情が少しだけ真面目になる。
「実は……まだこの街に来たばかりで詳しくないんです。だからデイジー先輩に街を案内してほしくて」
兄貴がそう言うと、後ろからクレアの圧に怒気が混じった。
冷汗が流れる。
「あの人、ナンパしにきてるね」
その言葉で俺も理解した。
そうか、兄貴はデイジーに用があったのだ。
しかも……
「ナンパ……」
「うん。ていうか、あの人サングラスで視線隠しているけど、こっちからだと瞳が見えるよね。ずっとデイジー先生の胸見てるよ。十秒に一回くらい顔も見てるけど」
成程。
マズいな。
クレアの機嫌が悪くなっている。
「う~ん……私もそんなに詳しくないぞ」
「構いませんよ。先輩のおすすめの店でこの久しぶりの邂逅を祝して一杯飲みましょう。昔話に花を咲かせるのも一興ですよ」
クレアが指摘してから兄貴の視線を追うが、確かにデイジーの胸ばかり見ている。
あまりに露骨すぎる。が、真正面にいるデイジーにはサングラスの所為でバレることはないだろう。
それ故にか兄貴は眼福とばかりにデイジーの胸ばかり見ていた。
デイジーは今、黒のローブを羽織っているが確かに服の上からでもわかる。デイジーの胸の大きさは。
ただ……その視線に気づくクレアも凄いな。いや、怖いというべきか。
言いようのない感情が俺の心の中で渦を巻く。
これは……
俺も……気を……
「意外と女性は男の人の視線に気づくからね。アイガ」
「はい……」
止めの一撃のような一言が俺の心に隕石のように降り注ぐ。
返事の声が少し裏返ったのも仕方がないだろう。
もうここにいるのは色んな意味で危険だ。
そろそろ、学長室に行こう。
そう思ったとき。
「え!?」
「な!?」
途轍もない殺気が迸った。
地面が震え、大気が焦げるような、圧倒的な殺気。
俺とクレアが同時にそちらへ視線を送る。
「アンドリュー!」
覇者の一括のような怒声が響いた。
現れたのは、パーシヴァル先生だ。
怒髪天を衝くが如く、怒りに満ち溢れたパーシヴァル先生が兄貴とデイジーの方へ赴く。
「あ? あぁ、これは、これは。パーシヴァルさんですか」
兄貴はサングラスを僅かにずらしてパーシヴァル先生を確認した。
その顔は先ほどまでの朗らかさなどはなく、面倒臭そうな、少し苛立っているような表情だった。
「ここは神聖な学び舎だ! 低俗な行為はご遠慮願おうか」
「何をもって低俗などと言われるかわかりかねますな。こっちは丁寧にお願いしているだけなんで」
「何!?」
空気が乾いていく。窓ガラスは震え、遠くのほうで鳥が劈きながら飛んでいった。
戦場と見紛うほどの殺気が木霊している。
「パーシヴァル先輩、俺はもうあんたの部下じゃない。命令される謂れはないんすよ」
「これは命令ではない。勧告だ、アンドリュー」
俺でもわかる。
この二人……
最悪の関係のようだ。
二人の殺意が空気を歪めていく。
一触即発。
お互いに剥き出しの爆弾のように殺意が零れていた。
隠す気もない。取り繕うわけでもない。
怒りや恨みとも違う。
純然たる殺意が烈しくぶつかりあっているのだ。
パーシヴァル先生は元・王都護衛部隊の副隊長。片や兄貴は現・王都護衛部隊の隊長。
二人の実力差はわからない。
ただ、戦えば無事では済まないだろう。
二人もそうだし、この学校も。
激しい戦禍が予想される。
「やめなさい!」
瞬間、デイジーが吠えた。
それに驚いたのか二人の殺意が雲散霧消する。
「本当に二人は! 前々から仲が悪いですがいい加減大人になってください! 特にパーシヴァル先生! 生徒の前で教員たる先生がそのように安易に殺意を放つなんて! 言語道断ですよ!」
デイジーに叱られパーシヴァル先生は目に見えて小さくなる。
「うぅ……申し訳ありません……」
その後ろで兄貴がこの上なく嬉しそうだった。
「アンディも! 現職の護衛部隊の隊長が妄りに殺意を放たないで頂きたい! ここは学校です! ご自分の立場をわかっているのですか!?」
「め……面目ありません」
自分も怒られると思っていなかったのか、兄貴もまた小さくなっていった。
あのような姿の兄貴は初めて見る。
「もう……本当に。貴方がたは……生徒も見ているんですよ。弁えてください!」
そう言い残してデイジーは怒りながら校舎の中へ入っていった。
取り残された二人は先ほどまでの威勢は完全に消え、叱られた幼子のようにガックリと項垂れながら別々に歩き出した。
なんだろうか。頭の中に浮かび上がるのは『哀れ』という言葉だ。
クレアのほうをちらりと見ると、クレアもぽかんとしている。
「と……とりあえず、シャロン先生のところに行きましょうか……」
俺は力なく「あぁ」と返事した。
なんだろうか、もう疲れも何もかも吹き飛んでしまった。
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