第104話 長閑な日常-後編
「ん?」
なんだ、この感触は?
俺の右腕に不可思議な感触が宿った。
それは今まで感じたことのない感触だ。
近いものは……
肉まん? プリン? ゼリー?
それらに近い。がどれとも違う。
仄かに暖かく、また触れ心地の良い……
なんだろうか、これは。
そう思って右腕を見ると……
胸だ。
女性の胸があった。
正確には大きな……豊満な胸の女性が俺の右腕に押し付けられていた。
思考が……停止……柔らか……する……
なんで?
え?
柔らか……
てか、誰?
柔らか……
「へぇ~こんなにムキムキなんだねぇ~すごぉ~い」
豊満な胸を持つ女性……が、俺の右腕に抱き着いている。
女性はやや上目使いで俺を見上げた。
身長は百五十と少しくらいか。
胸は……とにかく大きい。
髪はツインテールで、右半分は水色、左半分はピンクという奇抜なものだった。その髪を薄紫の丸い球のついたゴムで止めている。
眼は猫のような瞳で可愛い。
服装は俺と同じローブだが、その服はかなり改造されていて、胸元がざっくり開いている。下に着ているシャツもそれに合わせてか、胸元が開かれていた。
そのためか、胸の大きさがなお一層強調されている。
「え? と……君は?」
絞り出せた声が軽く震えていた。
俺に抱き着く女性はにっこりと笑う。
その顔はまた可愛らしい。
「私は一年一組特別科のジュリア。ジュリア・ヴァンデグリフトだよ。てへ」
にっこりと笑った貌が太陽のよう眩しい。
「あ、ども、アイガ・ツキガミです」
少し、たどたどしい挨拶になってしまった。動揺がさらに広がる。
この間もずっと彼女の胸が右腕にあったのだ。
神経がおのずとそちらに集中している。
ん?
特別科?
と、いうことは彼女はクレアのクラスメイトなのか。
「ジュリア!」
不意に俺の後ろから怒号が響き渡った。
瞬間、神経が解放される。
俺が振り返るとそこにクレアとサリーがいた。
「あ……クレア……」
言葉が詰まる。
クレアの貌が怒りに満ちていた。
あまりの迫力に俺は少し慄く。
その姿はまるで不動明王のようだ。
怒りの炎を背に宿している。否、幻覚だ。が、本物と見まがう程の迫力があった。
眼も据わっている。
純然たる怒りだった。
そんなクレアの視線が俺を射貫いた。
あれ? なんで? 怒っている?
それは俺が知らないクレアの顔だ。
今までこの学園に来て初めて見る顔だった。
そんなクレアがこちらへ近づく。
「ジュリア! 離れさないよ!」
クレアの怒りにジュリアは嘆息しながら離れる。
「はぁ~怖い、怖い。ちょっと学園を救った英雄に挨拶しただけじゃない」
ジュリアの表情が先ほどと変わった。明らかに俺に抱き着いていた時とは違った。その変化に俺はまた慄く。
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
クレアが詰め寄った。
怒りの炎に身を任せているようだ。
「怖い、助けてアイガ君」
ジュリアが俺の背後に隠れる。
「え? え?」
俺が戸惑う中、ジュリアの胸が背に当たる。柔らかい。
「アイガ!」
「はい!」
クレアの怒りの矛先が俺に向かった。
「鼻の下伸びてる!」
クレアに指摘され俺はつい鼻の下を手で隠す。
「ごめんね~クレアったら怒りっぽくて。胸にいくはずの栄養が頭にも回っていないみたいね。じゃあどこに行っているのかしら? この学校の七不思議の一つだわ」
ジュリアが顔だけを出してそう呟いた。
しかし……なんということを言うのか。
それは爆弾の導火線を走る炎を火炎放射器で後押しするかのような暴挙である。
「あ!?」
案の定、クレアの激しい怒りの炎がこちらへ迸った。
それは熱を感じるほどの怒りだ。
「こわぁ~い」
だが、ジュリアは一切気にしていないようだった。
これはこれで恐ろしい。
「五月蠅いわね。あんたこそ無駄肉揺らして脳味噌足りないのがバレるわよ! いつまでぶりっ子のふりしているのよ!」
「あ?」
クレアの一言にジュリアの目が据わりだした。
いつの間にか俺の背後から出て、クレアの前に立っている。
二人の間にバチバチと火花が散っているような気がした。
俺は理解する。
この二人、仲が悪い。それも最悪の相性のようだ。まさに犬猿の仲。
「何よ! やるっていうならいつでも勝負してやるわよ!」
「怖い、怖い。私ぃ~すぐ喧嘩する人苦手なのにぃ~」
そう言いながらお互い、間合いに入っている。
一触即発。
どちらかが動けばどちらかが即座に反応できる。そんな距離だ。
いつの間にか、普通科の視線もこちらに集中している。
ゴードンもロビンも釘付けだ。
俺は、とりあえず、最悪の事態でも動けるように軽く前傾姿勢を取る。
暫しの沈黙。
「パーシヴァル先生が来たわ。ここまでね」
修練場の入り口に誰かが入ってきた。
それを合図にジュリアはニッコリと笑って踵を返す。
そして俺達から距離を取った。
空気が穏やかになる。
良かった。何も起こらなかった。
流石に女性二人の喧嘩は止めなくてはならない。
しかし、特別科にいる二人の喧嘩を止めるなど、想像しただけでも恐ろしい。
俺は姿勢を戻す。
クレアはまだ少し怒っているようだが戦闘の体勢は解除していた。
「アイガ君、またあとで」
そう言ってジュリアは振り返り、ウィンクをしてから投げキッスをする。
艶やかに。
クレアの視線がそれを追って俺に向く。
「アイガ……鼻の下伸びてる」
俺はまた鼻の下を隠した。
クレアの怒りを帯びた視線が俺を射貫く。
「スケベ」
そう言い残して、クレアはその場を離れた。サリーもそれに続く。
疑問符が脳を埋めていった。
同時に背中に今まで感じたことのない種類の汗が流れていく。
五月の風は優しく暖かい。
空はどこまでも青い。
遠くで鳥が囀る。
長閑だ。
だが、それとは対照的に俺の心は焦燥と疑問で埋め尽くされていた。
あれ?
俺が悪いのか?
ん?
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