第57話 クレア編~爆ぜる思い

「利き腕じゃなかったから加減を間違えたか」


 そう言いながらアイガは左手の返り血を払い、アサルト・モンキーの死骸に背を向ける。


 あんなに強かった上級魔獣を容易く斃したアイガ。ありえない強さだ。

 そしてそれは私がこのリガイアで過ごした中で見たこともない異質なものだった。


 ただ……

 素手で魔獣を斃すその姿、その強さ、その怖さ、全てが今いた魔獣の猿より上だった。


 私は怯えている。

 目の前にいるのがもう一体の魔獣にしか見えなかったから。いやそれ以上の存在。


 アイガと目が合う。

 狼の貌のアイガ。

 でもその貌はとても悲しそうだった。


 あ、あれは……

 私達がここに来る前、ワームホールに入る前に見た貌だ。そしてこちらに来てからずっと見ていたアイガの貌だ。

 悲しい貌で自分を奮い立たせて私を止めようとしてくれていた時の貌だ。


 それを思い出した時、私の心に何かが突き刺さる。 


 アイガに私は怯えているの?

 どうして怯えるの?


 彼はいつも私を守ってくれていたじゃない。

 今だって私を守ってくれた。


 それなのにどうして怯えるの?


 あれはアイガだ。

 いつも傷つくことを厭わず助けてくれたアイガだ。

 今だってボロボロに傷つきながら私を守ってくれた。


 傷つきながら……

 右腕は折れ、全身ボロボロにされて、血塗れで、ずっと私を守ってくれていた。


 アイガは姿を変えたのだって私を守るためだ。

 私が強かったら、ちゃんと戦えていたらあんな姿になる必要はなかった。

 それに最初から姿を変えていればあんなにボロボロにならずに済んだはず。


 じゃあ何故しなかったの?

 私がこんな顔をすることをわかっていたからだ。


 ギリギリまで迷って、悩んで、そして私を助けるためにアイガはアレを使ったんだ。


 全ては私を守るため。

 そこまでさせておいて私は怯えているの?


 何の役にも立たずアサルト・モンキーに殺されかけた私をアイガはいつものように守ってくれただけなのに。


 私は最低だ。卑しい。そして身勝手だ。

 アイガを傷つけたのは私だ。アサルト・モンキーなんかじゃない。


 何がアイガを守る、だ。

 私は何もできていない。

 それどころか今もずっと彼を傷つけている。


「丹田閉塞……」


 アイガはいつの間にか、落ちていたローブを拾い腰布のように巻いていた。

 青い湯気が立ち込め、人狼の身体が人間へと戻っていく。

 身体は小さくなって、獣毛と尻尾が無くなった。爪も消え、その姿はまさしく人だ。


 人の姿に戻ったのに一向にこちらを見ないアイガ。

 その理由はすぐわかった。


 泣いている。

 彼は泣いていた。


 それを見られたくないのだろう。

 そこまで追い詰めたのは私だ。


 全部私の所為だ。

 ここに来るまでも、ここに来てからもずっとアイガは私のためにだけ行動していた。


 暗い道も殿を守り、私と会話しようと話しかけてくれていた。

 私は自分のことで精一杯で何も返せなかった。

 今も心を這う蟲がアイガの姿になって幻影を見せる。 


『誰の所為でこうなった』

『全部お前の所為だ』

『お前の所為で俺はこんな姿になったんだ』


 その幻聴を聞くたびに心が裂ける。無意識に胸を押さえ私は咽び泣く。


 やめろ!


 私は心の蟲を払う。


 アイガはそんなこと言わない!

 いつもアイガは誰かの所為になんてしなかった!

 それをわかっているのは私のはずなのに。


 結局、私がアイガを苦しめた。

 五年間会わなかったのだって私のエゴだ。

 今も彼を安全な場所に返そうとしたのもエゴだ。

 全部身勝手な私のエゴだ。


 ただ怖かっただけ。


 アイガに責められるのが。

 そんなことするわけないのに。


 私はいつも自分のことしか考えていない。


 あの母親と同じだ。


 気が付いた時、私はアイガの背中に抱き着いていた。


 暖かい。


 鍛えこまれた肉体に伝わる暖かさ。決して化け物なんかじゃない。

 ここまで鍛えるなんて並大抵の努力じゃ無理だ。

 よく見ればその肉体は傷だらけ。これもきっとアイガが魔法の世界で戦うために努力した証なんだろうな。


「え? クレア?」


 アイガが振り返る。

 目が合った。


 どうしよう?

 なんて言おう?

 謝らないと。


 そう思ったけど言葉はいつまで経っても喉から先に出てこない。頭ではわかっているのに、感情のうねりがそれすらも止めてしまう。


「アイガ……」


 絞り出せたのはその一言だけ。

 アイガは当惑しているようだった。


「クレア?」


 アイガが私を抱き寄せてくれる。

 その時のアイガの顔は、施設で初めて私に話しかけてくれたあの時のアイガだった。

 冬でも外で遊ぶような男の子だったのに何故か私と一緒に絵本を読んでくれたあの頃のアイガだった。


「アイガ……」


 やっとちゃんとアイガに会えた。

 自分のエゴで遠ざけて傷つけてそれでもアイガは私を守ってくれた。私に会いに来てくれた。私のために戦ってくれた。


 それなのに……

 ごめんね、アイガ。ごめんね。

 心で謝罪を繰り返す私に伝わるアイガの温もり。

 その温もりを嫌うように、私の心に救うアイガの幻影がまだ何か怨嗟を呟いている。


 でも、アイガの温もりが私の心に届いて……その幻影を靄の如く吹き飛ばしてくれた。


 もう蟲はいない。

 そして途端に……理性が決壊する。感情が、本能が、激しく零れた。


「アイガぁぁぁあああ!」

「え?」


 私は泣いてしまう。

 ちゃんと謝ろうと思ったのに……


 だけど涙が止まらない。

 わかっている。


 ここで泣くのはダメなことはわかっている。

 だけど止められなかった。


「うわあああぁぁぁん!」


 ただひたすらアイガの胸の中で泣くことしかできなった。

 今までの自分の悔恨が涙となって、嗚咽となって流れ出て行く。


 私は許しを請うように強くアイガを抱きしめた。

 アイガは何も言わず、優しく私を包み込んでくれる。


 優しさが私を包み込んだ。

 身勝手なのはわかっている。だけど……


 あぁ、この時間が永遠に続けばいいのに。

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