第47話 クレア編~恐怖という名の蟲
「ほへ!?」
不意に呼ばれたため変な声が出る。
「クレア! 俺だよ!」
俺だよ、と言われてもわからない。私は自分で言うのもなんだけど結構有名人だから私の名前を知っている人も多い。私は知らないけど私を知っている人なんてざらにいる。
だから、この人もその類だと思った。
でもどうしてだろう。
この人の声を聞いたとき私の心の奥底がざわざわと騒ぎ出す。
さっき心に蠢いたものが一斉に溢れ出した。
心の波が再び波濤の如く押し寄せる。
その波はやがて形を変える。
蟲だ。
水だと思っていたその雫の一滴までもが歪で気持ちの悪い蟲へと変化していった。
まるで穴から何百、何千もの蟲が這い出るようなイメージ。
心がその蟲で一杯になる。
そんな中、いきなり彼に肩を掴まれた。
「ほへほへ!?」
力強い圧力に私は圧倒される。
少し混乱もしていた。
「ちょっと! 貴方! 不埒な!」
彼の後ろでサリーが怒っている。
私も怒らないといけないんだろうけど、何故か怒りの感情は湧いてこない。
心にあった蟲があふれ出て身体を這うイメージが幻覚のように現れていた。それはもう私の感情を破壊するには充分な威力だった。
一方で心にはまだ蟲が残っていて、その蟲たちが一つの大きな塊と化した。繭のように。そこでやっとこれが何なのか漠然とだけど理解する。
そんな私の気持ちを余所に心臓の鼓動が加速していった。
「俺だよ! アイガだよ! 月神藍牙だよ!」
その名前を聞いて私の心が狂いだす。繭から蟲の翅がチラリと覘く。
「藍……牙? アイガ? アイガ!?」
アイガだ。
今、私の目の前にはアイガがいた。
十歳の頃に別れたアイガ。面影がある彼の顔を見て彼がアイガだと確信した。
涙が出そうなくらい嬉しかった。
会いたかった。会いたくて、会いたくて仕方が無かった。
だけど会わなかった。会えなかった。
貴方に会ったら私はまた貴方を頼って困らせてしまう。
そう思って我慢してきた。
そのアイガが今私の目の前にいる。
私の心臓が狂喜を感じて破裂しそうになっていた。同時に繭は完全に割れ蟲がゆっくりと出てくる。
「そうだよ! 俺だ! アイガだ! やっと会えた。クレアに会いたかった。君に会うために俺はここへ来たんだ!」
顔つきは精悍になっていて、声は少し逞しくなって、身体は大きくなっているけどそこにいたのはあの時と同じ、いつも私を守ってくれていたアイガだった。
「本当にアイガ……なの?」
私の反応を見て、怒っていたサリーも動きを止める。
私は少し冷静になった。
そしてやっと動き出した脳が疑問を抱く。
何故ここにアイガが?
ここは魔法の学校。
それも才能ある人しか入れないエリート養成学校。
そこになんでアイガがいるの?
彼は魔力が全くない、魔法が使えない、はずだ。
同じ一年生だと言っていた。ということはこの学校に入学しているということ。
何故?
その二文字で私の頭は埋め尽くされる。
「どうして? ここ、魔法の学校だよ? なんでアイガがいるの?」
「クレアに会うために鍛えてここにやってきたんだ。魔法の学校でやっていけるように頑張ったんだよ」
意味が分からない。
鍛えた?
それだけで魔法の学校に入れるわけがない。アイガが何を言っているのか本当にわからなかった。
それを必死に考えている時、私の心の中にいた蟲が繭を払いながら姿を現す。
蟲はアイガの幻影に姿をしていた。異形の翅を宿すアイガが私の心にいたんだ。
その幻影が言葉を紡ぐ。
『なんで学校生活を楽しんでいるんだ?』
『俺は誰の所為でここにいると思っているんだ?』
『お前はまだ卑怯な女のままだな』
心の中のアイガが恨めしい表情で憎悪を放ちながら私を誹った。
その言葉は私を深く、深く、抉る。
「やっと……会えた。今度こそ、必ずお前を守って見せる」
アイガは私を抱き寄せた。
あぁ、アイガの匂いだ。
それに。
凄い。
触れるだけでわかる彼の身体。鍛えたという言葉に嘘偽りはない。がっしりとしたその体躯は鎧がそのまま人の肌になったようだった。
そして、一瞬の歓喜を餌に私の中の蟲が私の心を一気に蝕む。
蟲の正体がその時やっとわかった。
それは恐怖だ。
アイガをこの世界に連れてきた時に、アイガを向こうに帰せないと知った時に、そしてアイガを失うと思った時に生まれたあの恐怖の塊だ。
私の心はその恐怖で支配される。
『忘れるな、己の罪を』
そう言われた……気がした。
恐怖が私を縛り付ける。
「やめて!」
咄嗟にアイガを拒絶した。
アイガは悲しそうな顔で私を見る。
「なんで? クレア?」
アイガが近づく。
『楽しそうだな、俺の人生を奪っておいて』
『お前はつくづく最低だな』
『母親と一緒なんだ、お前は。最低で卑しくて身勝手な女なんだ』
私の中の蟲が……アイガの幻影がそう囁く。
止めて、止めて、止めて、止めて、止めて!
気が付いたときには私はアイガをビンタしていた。
「来てほしくなかった……ここに……来てほしくなかった……会いたくなかった!」
違う。
本当は会いたかった。
だけど、今じゃない。
私の所為で貴方の人生を奪った。
そんな咎人なのに……私は学校生活を楽しんでいた。私が笑顔でいるところをアイガに見られた。
それが怖かった。
途方もないほど怖かった。
私は卑怯な女。
どうして彼を叩いたの?
どうして彼にそんな言葉をぶつけるの?
アイガは被害者なのに。
彼は私の所為でこんなところに来てしまったのに。
私はまた同じを過ちを、十歳の時と同じように彼に間違った怒りを……繰り返しぶつけてしまった。
もう自分でも何が本心で何が嘘なのかわからなかった。
ただ怖い。
それだけが私の心から溢れ出る。
だから私は泣いていたんだ。
私は逃げるようにその場を後にした。
サリーが慌てて私に駆け寄る。
彼女は知っていた。アイガが私にとってどういう人か、を。
「クレア様、その……よろしいのですか? 彼……アイガさんなんですよね……」
私はサリーの言葉を返せない。
ただ卑怯に泣き続けて逃げるだけ。
本当に私は私が大嫌いだ。
憎くて、憎くて大嫌いだ。
殺してしまいたいくらいに。
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